古の憧憬の都・西安



中国関中平原の中部に位置する西安は、かつて長安と呼ばれていた陝西省の省都である。
約2000年に渡って政治・経済・文化の中心であり、紀元前三世紀の西周、秦から北周、隋、唐など13の王朝がここを都に置いている。
この地から輩出した英雄やヒロインは多く、秦の始皇帝や前漢の武帝を始め、唐の玄宗や楊貴妃、さらに多面に渡った偉人たちである。
唐代の長安は、西方からやって来た多くの外国人で賑わった大都市として栄えていた。
日本との交流も古く、遣隋使や遣唐使として長安に派遣されていた。阿倍仲麻呂は54年もの間この地に住み、宗教や文化の伝播と日中友好に貢献していた。さらに僧侶・空海は、青龍寺で密教を学んでいた。往時この長安には、多くの文化人の交流があったのだった。
当時の長安城は、諸民族の憧れの的だった。日本でも「平城京」や「平安京」などは、長安城をモデルとして造られた都市である。
平安時代初期の嵯峨天皇は、京都の平安京の西を「長安」、東を「洛陽」と名付けた。しかし、しだいに右京が衰えて左京が発展したために、「長安」の名が消えて「洛陽」と呼ぶようになった。現在でも、洛中、洛外、洛南などの言葉が使われている。
中国とは違って、平安京には城壁がないのは、騎馬民族の侵攻がなく、不必要だったからである。



長安の華やぎが失っていくのは、唐代の末期だった。戦乱の荒廃により、都はしだいに寂れていったのだった。そこで首都を、東の洛陽に移されたのだ。
長安があまりにも大都市に発展したために、食糧問題という、致命的な弱点を抱えてしまったためである。食料搬入が容易な場所に、朝廷を一時的に避難させるために、洛陽を副都に置いて対処したのだ。
首都機能を失った長安は縮小されて、一地方都市となってしまった。明代に、長安への遷都論が唱えられたこともあった。しかし、唐代の食糧問題が尾を引いていて、返り咲く余地はなかった。
没落の道を辿った長安は、1369年の明代に再建されてから、西安と改められたのだった。





                                  
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