東西文化が交差した敦煌



沙州といわれていた敦煌は、甘粛省の河西回廊の最西端にあるオアシス都市である。海抜は1138mで、年間降雨量が40ミリに満たない砂漠性気候だ。
紀元前111年に、漢の武帝が張掖と武威、酒泉、敦煌に河西四郡を置いた。敦煌は設立以来、西域の交通の中枢として、東西文化交流の中心地となってきた。さらに、最前線の軍事拠点としても、重要な役割を担っていた。いわゆる、東西の文化が花開いた、シルクロードの交差点でもあったのだ。
漢の支配以前の紀元前より、敦煌を支配していたのは月氏である。しかし紀元前二世紀には、匈奴の支配下に入っていた。現在の敦煌の町は清代にできたもので、古代の敦煌は、違う場所にあったという。
漢の西域経営の中心地となった敦煌は、西方から仏教やブドウ、ゴマなどの産物、それに汗血馬が運ばれてきた。汗血馬とは一日に千里を走り、血のような汗を流したと伝えられ、当時は「天馬」という美称で呼ばれていた名馬である。漢から西方には、名高い絹が運ばれたのはいうまでもない。
往時この地の住民は、漢政府によって送り込まれた窮迫農民や犯罪者だったという。敦煌の住民は、漢の中心部へ帰ることが禁じられていたそうだ。
敦煌は、781年に吐蕃の侵略を受けて、その支配下に入る。その後70年間、吐蕃の支配は続く。唐と対立していた吐蕃の支配下では、交易が行われなかった。そのために、経済の動脈が絶たれた敦煌は、一気に衰退していった。
北宋代に入ると、タングート族が西夏を建てて敦煌を占領した。タングートは、六世紀から十四世紀に中国北西辺境で活躍した、チベット系民族だ。
その後、モンゴル帝国によって西夏が滅ぼされ、敦煌は元の支配下に入る。当時は、中国と西方とを結ぶルートが、海のシルクロードに移り始めているころだった。そのために、オアシス・ルートのこのシルクロードは、しだいに寂れていった。





                                  
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