石窟大美術館・莫高窟



鳴沙山の東の断崖にある、敦煌石窟とも敦煌千仏洞ともいわれている莫高窟。南北に1600mに渡って掘られた石窟は、492窟あり、中国の三大石窟の一つになっている。
魏晋南北朝時代は、仏教が中国に布教した時代である。敦煌の周辺には、莫高窟のほかに西千仏洞や安西楡林窟、水峡口窟などがある。しかし、規模や美術的価値などから見て、莫高窟の比ではない。
莫高窟には、2400余りの仏塑像が安置され、壁一面に壁画が描かれている。それは、唐代に作られたものが一番多いという。石窟の開削は、366年に一人の僧侶によって始められたと伝えられている。
敦煌は漢民族を始め、チベット族やモンゴル族など、さまざまな民族によって支配されてきた。しかしどの時代においても、石窟は掘り続けられていたという。
それは、北涼期から北魏、隋、唐、五代、元へと、千年に渡って営々と掘り続けられたということである。それはまさに、中国仏教美術史をここ一ヵ所で学べてしまうほどである。
北涼以前にも窟があったようだが、新たに掘った際に潰してしまったようだ。
見向きもされずに、長らく忘れ去られてしまった莫高窟。再び注目を浴びたのは、1900年の敦煌文献の発見によってである。
この地にいた道士・王エンロクが、偶然にも窟内から大量の文献を発見したのだった。それは、第16窟の壁の中に隠されていたのだ。後に「蔵経洞」と命名された、耳窟と呼ばれる第17窟からだった。しかし、この地の地方官は、この文献の価値を知らなかったので、しばらくの間放置されたままだった。
そんな噂を聞きつけたのが、イギリスの探検家・考古学者のオーレル・スタインだ。1907年、王エンロクから数千点の文書や絵画を買って、イギリスに持ち帰った。翌年、フランスの東洋学者ポール・ペリオも、同じくフランスへ持ち出した。



清政府は慌てて、敦煌文書を北京に移した。しかい、まだ残されていた文書を、日本やアメリカ、ロシアの探検隊がそれぞれに持ち帰ったのだ。
中華人民共和国が成立すると、莫高窟は保護を受けられるようになり、1987年に世界遺産に登録された。
莫高窟は現在492窟あり、このうち見学可能な公開された窟は、40窟だ。
「莫高窟陳列館」前に石窟の入口があり、ここでカメラやバッグを預けて中に入る。各窟には鍵が掛けられており、管理が厳重である。かつての探検隊などにより、持ち去られた苦い教訓からだろう。
暗い窟内に入り、懐中電灯で天井や壁を照らすと、鮮やかな色彩の壁画が浮かび上がった。鮮明で、豊かな彩色に驚かされる。
断崖に掘られた、さまざまな大きさと形の石窟を巡るが、どこもぎっしりと壁画が描かれていた。塑像も、時代ごとの特徴がよく表れていて興味深い。印象に残った窟は、多々あった。
第328窟は、盛唐時代の窟だ。本尊の釈迦像は、面長で切れ長の目である。そのスリムな肢体と髭は、かつて見たことのあるインドのマトゥラー仏や、パキスタンのガンダーラ仏を思わせる。龕内には、一仏、二比丘、二菩薩、四供養菩薩が安置されていた。
北涼時代に掘られた第275窟は、莫高窟の中でも最も古い窟といわれている。正面には、交脚弥勒菩薩が祀られていた。その大きな座像は、脚をX字に交差させている。「中国のモナリザ」といわれているごとく、尊顔がすばらしい。
慈悲と妖艶さを漂わせている微笑。柔和な口元は、今にも語りかけてくるようだ。これは、石像や木像では見られない、塑像がもつ柔らかさであろう。
第96窟は、初唐のころに造られている。朱塗に映える九層の楼閣は、莫高窟のシンボルとなっている。この大仏殿の大建築物は、高さ43mある。本尊の高さは34.5mで、幅12.5mの巨大な弥勒菩薩大仏だ。中国で5番目に大きい像で、「北大仏」とも呼ばれている。
盛唐時代に造られた第130窟は、「南大仏」といわれている、弥勒大仏である。方錐形の窟の高さは29mで、大仏の尊顔は7mある。
暗闇の窟から出ると、眩い太陽の光に目を細めた。風が吹くたびに、鳴沙山の砂漠の砂が頭上から降ってくる。





                                  
inserted by FC2 system