新疆ウイグル自治区の歩んだ道



広大な面積を持つ、新疆ウイグル自治区。その面積は、中国の省や自治区の中でも最大で、中国全土の約6分の1を占めている。それは、日本の約4・5倍である。
全土の約4分の1は砂漠であり、中国の砂漠総面積の約3分の2に相当する。広大な砂漠があるからだろう、中国の核実験の大半は新疆ウイグル自治区で行われている。ロプノール核実験場付近では、住民の健康状態や農作物への被害が懸念されている。
民族は、伝統的に「テュルク人の土地」の意の「トルキスタン」と呼ばれてきた。現在の国境を越えた、広い地域の一角として、中央アジア文化圏に属していたのだ。
中国から西域と呼ばれる、この地域の歩んできた道を追ってみると、中国とは古くから、政治・経済の繋がりがあった。
漢と唐代には、中国の直接支配下に置かれたが、唐代後期にはウイグル帝国に統治される。十三世紀には、モンゴル帝国のチャガタイと、その子孫の管理下に組み込まれた。さらに十六世紀から十七世紀は、ヤルカンド汗国やジュンガルに征服される
十八世紀になり、清のジュンガル征服に伴い、その支配下に入る。清朝側より、「ムスリムの土地」を意味する「回疆」とか、「新しい土地」との意の「新疆」などと呼ばれた。
十九世紀は、各地で反清反乱が相継いだ。1884年には、中国内地並の省制がひかれて、新疆省となった。
1933年と1944年には、イスラム教徒によって民族国家東トルキスタン共和国の建国が謀(はか)られた。しかし実現されずに、1949年に中華人民共和国に統合された。
1955年に、新疆ウイグル自治区が設置されたが、その直後に開始されたのが大躍進政策だ。その影響による飢饉に見舞われ、自治区の経済や住民は大打撃を受けた。
1962年には、中国共産党支配に絶望した国境地帯の住民7万人以上が、ソ連領内に逃亡している。
ウイグル人住民の中で、新疆における民族自治の拡大や、中国からの独立を唱える動きが、1980年に起きた。その運動が、中国内外で続いている。
新疆はチベットと並んで、中国大分裂の地雷原として、中央政府が神経を尖らせている地でもある。





                                  
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