火州の変貌の歴史


世界でも、有数の低地として知られたトルファン盆地は、ウルムチの東183kにある。「トルファン」とは、ウイグル語で「窪んだ地」との意だ。
トルファンの市街から、南に約40k行ったところに、「アイディン湖」がある。その水面は海抜下154mであり、イスラエルとヨルダンとの境にある死海に次いで、世界で二番目の低地である。
一日の平均気温が35度を超える日が、年間100日を超えている。夏の気候は、乾燥していて風が強い。気温は46度にも昇り、最高気温では49度を記録している。砂漠に卵を埋めておくと、15分で茹で卵になるといわれているほどだ。そのため古来、「火州」と呼ばれてきた。
一方、冬の冷え込みは厳しくて、マイナス28度にまで下がっている。年間降雨量は僅か20mm前後と低く、中国で最も乾燥した地域ともいわれている。
トルファンの人口の70パーセントはウイグル人で、残りが漢民族や少数民族から成り立っている。清代にできた、植民都市ウルムチとは違って、砂漠のオアシスとして昔から栄えてきた町だ。



砂漠地帯に引く水は、天山山脈が水源となっている。雪解け水を山麓から、カレーズによって砂漠の地下を通り、オアシスを潤している。そのカレーズは、十一世紀ごろにイスラム勢力圏より伝わったといわれていた。カレーズは万里の長城とともに、古代の二大建造物ともいわれている。
トルファンは前漢代に、車師国の一つの車師前国があった。その王城の下には、河が流れているので交河城といった。漢は、トルファン市街から東へ45kほどの場所に、高昌城を築いて屯田を行っていた。その後車師国が滅ぼされて、450年に高昌国を立てるが、640年には唐によって滅ぼされた。
高昌を征服した唐は、ここを西域経営の拠点にする。しかし、唐の力がこの地方にまで及ばなくなる九世紀になると、天山ウイグル王国の支配下に入った。
モンゴル帝国の征服後は、チャガタイ・ハン国に領有される。そのモンゴル帝国が分裂すると、東チャガタイ・ハンに入った。
トルファンとの名は、明代より流布し始めていた。十五世紀初頭には、明の永楽の使者がここを訪れている。清代には、ジュンガルとの間で争奪戦が行われ、清が勝利したのだった。








                                  
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