カシュガルの歩んだ道

歴史を追ってみるとカシュガルは、前漢の時代に初めて登場してくる。
古称でもある疏勒(そろく)国と呼ばれていた時代のカシュガルは、西域36国の一つに入っていた。
疏勒国の国都であった疏勒は、タリム盆地南部を通る、シルクロード南路の要所である。この地を訪れた唐の玄奘は、疏勒は仏教の盛んな国であると記述している。
九世紀には、北方のモンゴル高原で突厥(とっけつ)に代わったウイグル族が、キルギスに滅ばされた。そのために、大挙してカシュガルへ、タリム盆地へと入って来た。
その後のカシュガルの姿を決定的にしたのは、十世紀にカシュガルを拠点にした、カラハン朝の成立だ。カシュガルと呼ばれるようになったのも、この時代だった。
宋代には契丹(きったん)族が建てた西遼に属し、元代にはチャガタイ汗国の倍都(ばいと)となった。
明代にはヤルカンド汗国に属し、十八世紀には清朝が支配を確立する。清軍のカシュガル占領は、1759年である。
清朝滅亡後、1913年に疏勒県が設置され、1933年から翌年にかけた短期間ではあるが、東トルキスタン・イスラム共和国が成立した。カシュガルがその首都となったが、直ちに中国によって潰されてしまい、中国の支配下に置かれてしまった。
他の中央アジアの民族が、ソ連の支配から独立を勝ち取った今もなお、ウイグル族だけが異民族支配に抑圧されている。現在の中国政府の政策で、漢民族がカシュガルに続々と入植しつつあり、ウイグル人は益々隅に追いやられている。
このように、ウイグル族が多い土地だけに、東トルキスタン分離運動が盛んで、テロ事件も起こる。
大規模な都市開発計画のために、数千人のウイグル人が祖先からの住宅の立ち退きと、郊外への移住を強制されている。この問題を、北京まで訴えに行ったウイグル人は、公安当局に拘束されているそうだ。再開発後の建物には、漢民族が入居するという。




ホーム

inserted by FC2 system