タリム盆地の古都・ヤルカンド


カシュガルダムを出ると、緑が途絶えた不毛のゴビ灘となっていった。しかしバスがしばらく進むと、土造りの人家がちらほらと見え始めた。
しだいにその数が増していき、いつしか集落となった。コンクリート造りの立派な建物も、前方に建っている。そこは、ヤルカンドの中心部である。
未舗装の広い通りのあちこちに、ロバ車が客待ちをしていた。大木の街路樹の木陰の路地には、果物が並んでおり、人々が群がっていた。規模は小さいが、バザールである。
ヤルカンドはタリム盆地の西部にあり、この盆地の中でも一番大きなオアシス都市だ。漢代には莎車(さしゃ)国のあった地で、マルコポーロの『東方見聞録』には、「YARKAN」の名で記されている。「ヤルカンド」とは、ペルシア語で「石の河」。チュルク語で「友人の村」とか、「崖上の村」などの諸説がある。
旧市街の一画には、「ヤルカンド・ハン国」の王宮があった場所がある。現在は門が残っているが、これは1980年に再建されたものだ。かつての建物は、文化大革命期に紅衛兵によって破壊されてしまった。
ヤルカンド・ハン国(1514〜1680年)は、トゥグルク・ティムールの後裔である、サハド・ハンによって建国された。東チャガタイ・ハン国の地方政権で、この地を首都と定めていた。支配階級は、もともとモンゴル族だったが、しだいにイスラム・トルコ化して、ウイグル族などのトルコ系民族と融合していった。
王宮の向かい側には、「アマニシャーハン墓」がある。東チャガタイ・ハン国の著名な詩人・音楽家だった、アマニシャーハン。彼女は貧しい家庭に生まれたが、その美貌と才能により、ヤルカンド・ハン国の第二代君主ラシード・ハンの妻になったのだった。隣接して建っているのは、ヤルカンド最大のイスラム寺院の「莎車阿孜那(さしゃあじな)清真寺」である。



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