キャラバンの成立


今でこそ、このように道路が完備して、車で西域を旅することができる。しかし旧時の砂漠地帯は、苦労と危険が伴う旅だったのだ。
中央にはパミールの雪山があり、東西には砂漠がどこまでも広がっている。そのうえ、いたるところに山賊が出没した。そこで、共同防衛と安全のために、集団で物資を運ぶ隊商を組んで行動するようになった。
この隊商は、中国からローマまでの間を、一つの隊が往還したのではなく、その交易範囲は、隊の言葉の通じる区域だった。つまり、商品はいくつかの中継交易を経て、東西に流伝したのだった。
キャラパンの規模は、十数人から数百人の集団で、数十頭から数百頭のラクダやロパなどを連れていた。
好んでキャラパンを組んだのは、盗賊の襲撃から身を守るほか、税金との関係かあった。各地の土侯から税金をかけられたとき、キャラパンを組んでいた方が有利だったからという。
ラクダを引く駝夫には責任頭数かあり、一人が20頭を引いていくという。その最小単位を一連というから、先ほど遠方に見えたキャラパンは、二連の編成なのだろう。もっともふつうは、300頭で一つの隊商となるというから、二連では隊商としては極めて小さな隊であろう。
300頭のキャラパンの内訳は、四分の三に商品を積み、四分の一には隊商の人たちの食料や水、日用品などを積んでいるという。
キャラパンを編成するのは、二つのタイプかある。その一つは、国王や土侯の命令で、キャラバン交易の準備を命じられた家臣だ。もう一つは、各地の王侯から、一定の納入金によって隊商権を得た隊商長である。
彼らの募集に応じて分担金を拠出した商人たちは、その指揮下に入り、各地で商売をしながら東から西へ、あるいは西から東へと移動したのだった。
キャラパンは朝早く、朝露の湿りのあるうちにラクダに草を食ませる。正午ごろに朝食をとり、ラクダを集めて荷を積んで出発だ。
一日の行程は7、8時間で、暗くなってから休憩する。その距超は、25k〜30kで、行進中は一列縦隊を崩さない。
宿宮地にキャラバン・サライ(隊商宿)かあれば、そこに入る。曳き子はだいたい、漢回(ドンガン)という中国辺境に住む、漢化したイスラム教徒だという。
ラクダ曳きは、往路の全行程は歩くことが義務づけられている。たとえ病気でも、特例は許されない。食物を食べられなくなったという、重病の場合以外は、ラクダに乗ることはできないのだ。しかし、荷か無くなった帰路は、全員乗っても良いそうだ。全行程を通してラクダに乗れるのは、隊商長と料理長、コック見習いだけだという。
キャラバンを一言でいうと、砂漠の地で隊伍を組み、ラクダなどの背を利用して武器と食料を備えて旅する、商人団体といえよう。



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