絹と玉とホータン美人



新疆の西南部にあるホータンは、タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれた、オアシス都市である。その面積は、日本の本州とほぼ等しい。しかし、全体の33パーセントが山地で、砂漠が66パーセント余りも占め、耕地は僅か1パーセントに過ぎない。
紀元前三世紀から十一世紀のウテン国の故地で、仏教が国教だった。伝説によると、インドの仏教徒で皇帝アショーカの長男が、紀元前三世紀初めに、国の基礎を築いたといわれている。しかし、これよりも数世紀前から、後にクシャーナ朝を築いた、月氏による玉の貿易があったことが知られている。
法顕や玄奘もこの地を訪れたときは、仏教国として繁栄していた。しかし、十一世紀始めにカラハン朝が支配すると、町は徹底的に破壊された。それとともにイスラム・トルコ化が進んでいった。
現在では新疆のなかでも、最もウイグル族の割合か高い地区となっている。96パーセントのウイグル族に対し、漢族が2.7パ一セント、回族やその他の民族か1.3パ一セントという割合である。
市内の東側には、崑崙山脈から北流する白玉河と、西側から黒玉河が流れ、ホータンの北で合流してホータン河となっている。
白玉河には、雪解け水とともに運ばれてくる白玉が、古来より珍重されていた。
4〜5千年前には、すでに玉の道が通っていて、これは、絹の道よりも旱かった。東はチャルチャンやロプノールを通って、西安に持ち込まれた。西はカシュガルやカブール(アフガニスタン)、イスファハーン(イラン)、バクダット(イラク)を通ってヨーロッパヘ運ばれている。
このように、ホータンの特産は玉であり、それに絹と絨毯、さらには、ホータン美人ともいわれている。
絹が中国以外の地で、初めて生産されたのが、このホータンである。それは、ホータンの北方のタクラマカン砂漠にある、ダンダンウィリク遺跡に残されていた壁画からも証明されている。
その壁画は、ホータン王に嫁いで来た中国の王女が、髪の中に蚕の卵を隠している絵である。王は彼女に、持ち出してくることを頼んだのだ。悩んだ末に国禁を破った王女は、密かに持ち出して、その技術をホータンに伝えたといわれている。
往時、ホータンは貧しい町だったので、王は国の発展を考えていたという。シルクロードを行き交う隊商が、絹織物を運んでいる姿を見た王は、自国で作ることに気付いたという。



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