「セレス」への絹の賛美



漢から宋代にかけて、ウテン国の都だったホータン。現在は、中国新疆ウイグル自治区に属しているが、当時は、中国以外の国で初めて、絹が生み出された地でもある。
ホータンは絹よりも古い時代に、すでに玉の道ができていた。
往時、西域交易で活躍していたのは、イラン・トルコ系民族の月氏だ。月氏は、東方では「玉の民族」として、西方では「絹の民族」として知られていた。西方では特に「セレス」の名で呼ばれていたのだった。
セレスとは、漠然と中国を指すとともに、生糸や絹織物の称呼として用いられた。それはまた、古代ローマ人が中国人を指した呼び名であり、絹に由来しているのだ。
シルクロード、つまり「絹の道」は、旧時のヨーロッパで羨望の的だった絹が、中央アジアを経て運ばれた道である。
そんな絹の歴史を紐解いてみるが、正確な起源は定かではない。しかし中国では、紀元前三千年ごろにはすでに、絹織物の製法を築いていたといわれている。一説には、紀元前六千年ごろとの説もある。どちらも、人と絹との関りのあった時代である。
当時、絹糸虫とされる野生の蛾の種類は、中国だけではなく、インドやメソポタミア、小アジアなどに生息していた。しかし中国は、野生の絹糸虫のある種(桑子)を選び出して、桑の葉を飼料とした養蚕技術を確立していたのだった。
一般には、絹の発祥は、紀元前二千年ごろとされている。中国の妃・西陵が繭から細い糸を操ることを発見し、侍女たちに養蚕・製糸を教えたという。中国はその方法を秘密裏にし、絹織物だけを輸出していた。
その門外不出の製法から生み出された絹織物は、当時は、金の重量と等価で交換されていた。それにより、長安(西安)とトルコのアンタキアを結ぶ7000キロのシルクロードが繋かれていたのだった。
古代中国だけが世界随一の絹大国であったのには、二つの理由がある。その一つは、細くて強靭で、長く連続した生糸の生産に成功させたからだ。もう一つは、大量供給を可能にしたからである。
中国の絹文化は、長江中流域との説もあるが、黄河文明に起こり、四方に広まったとされるのが一般的だろう。
中国からインド、ペルシア、エジプトなどに運ばれた絹が、外国での養蚕が始まったのは、六世紀ごろである。西方の修道僧が、中国から蚕の卵を持ち帰り、ユスチアン皇帝に贈ったのが始まりだといわれている。こうして、コンスタンチノーブル(イスタンブール)を中心に、養蚕技術がヨーロッパに広がったのだった。
中世ヨーロッパでは、1146年にシチリア王国が、自国での生産を始めた。特にベネチアは絹貿易に熱心で、イタリア各地で絹生産が始まった。
一方日本では、弥生時代に朝鮮半島を経て伝わり、明治時代に入ってから著しい発展を遂げた。



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