ホータンの玉の道



すべての道具を石で作った古代人は、硬くて美しい石に憧れた。これは、世界各地に見られた現象である。
玉は美しい貴石・宝石であり、中国と西域との東西交易が営まれた、証を示すものの一つである。玉器は、紀元前2000年紀の殷墟から多数出土しており、古代シルクロードは「玉の道」であったともいわれている。
往時の中国では玉はほとんど産出されず、大部分の玉は、西域のホータンから運ばれたものだった。
中国の文献では、ホータンの玉を「禺氏の玉」と呼んでいる。禺氏とは月氏のことである。月氏は、ホータンまで玉を買い付けに行くのではなく、楼蘭で中継交易をしていたそうだ。楼蘭からホータンまでの間は、楼蘭か、ホータンの商人たちが運んでいたと思われる。つまり楼蘭は、約3500年前から玉の中継市場として栄えていたと推定されている。
多くの人々が、約4000年前から牧畜生活をしていた楼蘭の地。敦煌地方と隊商交易を行うためには、孔雀河の川口付近に、隊商都市を造る必要があった。そこから400k隔てた敦煌までは、一木一草もないロプ砂漠だったからである。楼蘭の地が、この地方で水を得られる、最後の地点であったのだ。
古代中国では、人が死ぬとその塊は鬼となって空間をさまよい、肉体が腐らなければ、いつか元の身体に戻ってくると信じられていた。そのために死体の腐敗を防ぐのに、玉が使われたのだ。目や鼻、耳、□、それに肛門などを、朱を塗った玉を詰めておけば良いと考えられていたのだった。
また古くは、玉を食べる習慣もあったという。この食玉の習慣は、玉のもつ辟邪(魔除け)の呪力を取り込もうとしたものだ。死者の□に玉を含ませて埋葬し、また、玉器を副葬品として墓に納める習慣も、玉のもつ呪力に頼った証である。さらには、再生の霊能を期待していたのである。旧事、この玉の持つ辟邪力が、いかに信頼されていたかが窺われる。



当時は貴族の装飾のために、鳥や獣を模した佩玉(はいぎょく)か作られていた。特に佩玉か広く用いられたのは、「徳を守り幸運をもたらすもの」と思われていたからだ。秦漢時代に入ると、玉の輸入はますます盛んになり、玉具剣や葬玉などに用いられるようになった。さらに近世以降は玉器なども作られるようになる。
後世、墓中などから発見された古玉。これは漢玉と呼ばれ、肌身に付けると灰化した玉の肌が精彩を発揮するというので、特に喜ばれていたようだ。
玉には、硬玉と軟玉の二種類が知られている。輝石の一種の硬玉は、硬度が6.5〜7あり、一般にヒスイと呼ばれる。ミャンマーのチンドウィン川上流が主産地で、中国では明や清時代に使われたものは、すべてミャンマーからの輸入品である。硬玉には、ナトリウムとアルミニウムが含まれている。純粋なものは白色で、クロムを含むものは緑や青緑、緑白色となる。
軟玉は、硬度が6〜6.5の角閃石の一種で、古代中国ではこの軟玉が用いられていた。崑崙山脈の北麓には、軟玉の鉱床がある。「葡萄の美酒、夜光の杯」と、唐の詩人・王翰が詠んだ『涼州詞』。その夜光杯は、キレン山脈から産出した、緑色の玉で作られたものである。
現在中国にある玉のほとんどが、ホータン玉という。ホータンの白玉河では、秋の渇水期に採集が許可されている。先ず国王が良い玉石を拾い集め、その後で一般人が拾うそうだ。
このように硬くて美しい玉は、太古の時代から人々の羨望の的であったのだ。



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