日本人捕虜が建てた劇場



大樹に囲まれた、「ナヴオイ・オペラ・バレエ劇場」。それはまるで、都会の真っ直中とは思えない、自然環境に恵まれたエリアにある。シックで荘厳な建物の前の広場には、噴水がある。今の時期は水が涸れているが、夏の夜になると、若者たちがその周りに集まってくるという。いねば、デート・スポットになっているのだ。
建物の外壁には、日本語と英語を含めて、四カ国語が刻まれていた。その日本語の内容は、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設
に参加し、その完成に貢献した」と記されている。
つまり、1947年に完成して、1500人を収容することのできるこの劇場。それは、旧日本兵などの捕虜による強制労働で、造られた建物のひとつだったのだ。
第二次世界大戦後に、タシケントに抑留された日本兵は、明日をも知らぬ捕虜の身だった。夏になると、50度にも気温が上り、冬にはマイナス12度にも下がる。そんな苛酷な条件の中で、このような立派な建物を造り上げたのだ。
その狂いのない確かな建築技術は、1966年4月26日に街を襲った直下型大地震で裏付けられた。
一挙に消え去ってしまった街の中に、ナヴォイ劇場だけが残っていたのだった。「日本人が建てた劇場は、地震のときにもびくともしなかった」との誉め言葉が、今でも伝えられているそうだ。それは、建設に携わった亡き日本兵にとって、せめてもの救いの言葉でもあろう。
劇場の造りは洒落ていて、その広さも、後部座席からでも見難くはない広さである。座席は、ゆったりとしている。柔らか過ぎず、硬過ぎず、体がすっぽりと収まる。長い時間観劇していても、体の疲れは少ないだろう。
二階には、いくつかの休憩室があり、それぞれの部屋ごとに装飾が凝っている。レリーフには、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズ……など、ウズベキスタン各地の民族スタイルが施されている。
西洋的な部屋の中に、絵柄と色調は中国的で、欄間のような造りは日本的であり、実にユニークな部屋である。これも古くから、東西文化が通い合い、シルクロードのオアシス都市として栄えてきた証なのだろう。



階下の広い部屋では、民族音楽の練習中だった。タンバリンを大きくしたような打楽器や、横笛、竪笛、弦楽器などの民族楽器を奏でている。10数名の中年男女のグループで、声楽の女性は、張りのある澄んだ声である。
しばし聴き入り、演奏が終ったところで我々は拍手を送った。すると奏者たちは、にこやかな笑顔で会釈をした。わたしは数枚の写真を撮らせてもらってから、覚えたてのウズベキスタン語でお礼を言った。
「カッタ・ラフマット(どうもありがとう)」
すると、ニコニコ顔の男性が、はっきりとした日本語で返してきた。
「ありがとう」
その言葉が引き金になって、奏者のあちこちから、「ありがとう」の日本語が連発された。
短い曲だったが、わたしたちのために、再び演奏をしてくれた。
このナヴォイ・オペラ・バレエ劇場は、「ウズベク文学の父」として現在でも英雄的な扱いを受けている、アリシェル・ナヴォイにちなんで名付けられたのだ。
1441年に生まれ、60歳の生涯を送ったナヴォイ。当時の文学はもっぱらペルシア系タジク語に支配されていた。そのなかで、トルコ系チャガタイ(古ウズベク)語に、文学的価値を与えたのがナヴォイである。彼の功績は偉大である。



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