西門から内城へ



土色の城壁に囲まれた、「アタ・ダルヴァザ門」と呼ばれる西門前に立つ。この門は、ヒヴァの正門のようになっている。1920年に革命後の混乱で壊されたが、現在の門は、1975年に修復されたものだ。
西門から東門にかけて、ほぼ一直線に「カール・マルクス通り」との名のメイン通りが伸びている。前方に見える、「カタル・ミナル」のミナレット(光塔)。その青い彩袖タイルに覆われた、建物が鮮やかだ。
門を入った右手は、「ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ」である。1852年にムハンマド・アミン・ハーンによって造られた、中央アジアで最大規模を誇る神学校だ。最盛期には、99人の寄宿学生がいたという。
中庭の広さは、38m四方ある。そこには、サクランボの木が植えてあり、小枝には小さな青い実が、たわわに実っていた。このメドレセは、1977年から、ホテルになっている。
前方の建物は、門前から見たとき鮮やかなミナレットだった、カルク・ミナルの円筒形の搭である「カタル」とは「短い」との意である。近づくごとに、その大きさとモザイク模様の優美さが、手に取れる。
塔の中ほどから、切り取ってしまったようなミナレット。それは、未完成に終わってしまったからだ。1852年に着工したのだが、ペルシアとの戦いでアミン・ハーンが1855年に死亡したために、中断されてしまったという。
現在の高さは26mで、基礎部の直径が14.2mだ。この搭が完成すると70〜80mのミナレットになっていたといわれている。しかし予定では、100mの高さの搭を建てようとしていたらしい。太陽に照らされたタイルの輝きは、ときわ美しい。



近くに、チャイハナがあったので、入ってみた。いわゆる、ウズベキスタンの喫茶店である。初めて入るが、思っていたよりも清潔で、装飾されていて華やいでいた。黄色のレンガの壁と床で、壁や窪みには、タペストリーや皿が飾られている。
広い室内には、巨大なベッドのような台が数個並んでおり、それぞれに絨毯を敷き詰めてある。その台の上には、6人ほどが座れる座卓が置かれていた。卓の周辺には、細長いカーペットをのり巻き状にした、肘掛が置いてある。
靴を脱いで絨毯が敷かれた台に上がり、一杯の紅茶を味わった。
カルタ・ミナルの道路を隔てた反対側は、「クフナ・アルク」だ。「古い宮殿」との意のハーンの宮殿で、十七世紀に建てられたものである。新宮殿の「タシュ・ ハウリ」が造られてから、区別するために呼ばれるようになったそうだ。
城壁で囲まれたイチャン・カラの中には、モスクやハーレムがある。それに造幣局や、兵器庫、火薬工場などもあったという。
1838年に、アラクリ・ハーンによって建てられた、夏のモスクは美しい。青や緑、白色の七宝タイルで装飾されてあり、繊細な模様と鮮やかな配色である。



クリヌッシュ・ ハーンの玉座の間は、十七世紀に建てられたものだ。しかし、ペルシア軍に破壊されてしまい、現在のものは、十九世紀の初めに造られたものという。
2本の高い柱があるテラスの壁面は、七宝タイルで覆われており、華やかだ。アイヴァンといわれるテラスの天井は、赤、緑、黄、黒色などの彩色豊な模様で飾られている。
宮殿の北側にはハーレムかあり、十九世紀に建てられたものだ。南側がハーンの妻の部屋で、北側が側室や召使の部屋だったそうだ。
このクフナ・アルクの入口の前は、広場になっている。往時、ここで兵士のパレードをしたり、罪人を処刑した場所だったともいう。
東西に貫く、「カール・マルクス通り」のほぼ中心の位置に、「ジュマ・モスク」がある。その前には、高さ42mのミナレットがそびえている。現在は博物館になっており、ホレズム帝国やイチャン・カラの旧時の生活が、分かりやすく表示されている。
このモスクは多柱式建築で、中央アジアで最も有名なモスクのひとつになっているそうだ。建造は十世紀だが、修復工事を重ねて現在のような姿になったのは、十八世紀の末ごろだという。
長さ55mで、幅が46mの広さがあり、約3m間隔に、212本の木材の柱が使われている。モスクの内部には、彫刻された柱が並んでおり、一本一本の柱の彫刻には同じものがない。
最も古い、2本の楡の木でできた柱は、百年前に、昔のホレズムの都から運ばれてきたものだそうだ。薄暗がりの中に並ぶ柱に近づいてみると、手の込んだ彫り込みに驚かされる。
総ての土台石と柱の間には、クッションが入っている。これはラクダの毛皮でできており、クッションのほか、床から虫が這い上がてこないようするという、防虫効果があるという。



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