ホレズムの州都・ヒヴァ



 ウズベキスタンの首都タシケントから、西方へ750kのウルゲンチ。さらに、南西35kの地にあるのが、ヒヴァである。四方を砂漠に囲まれた、アムダリヤ川下流のオアシスの町だ。古代ペルシア時代から、カラクム砂漠への出入口として、繁栄していたホレズム地帯。その肥沃なデルタ地帯は、4〜5千年も前から農業が始められていた。人々はアムダリヤ川と闘い、運河を引き、砂に覆われた大地を豊かな耕地に変えていったのだ。
そのおかげで、現在のホレズム地方には、綿花畑が広がっている。
「ホレズム」とは「太陽の国」との意で、その名の通り、年間300日は雲ひとつ出ない天気だという。
 ホレズムの語源は、古代ギリシアの書物に記されている。歴史家のストラボンが、紀元前一世紀に、明確に記載していた。その中で、太陽の光で温められた、高貴な国についての記述がある。その地はストラボンによって、「フウォレウズム」と名付けられた。
 ギリシア語で太陽を表す「フワウリ」と、土地を表す「ゼム」という語から成る言葉で、ホレズムは「太陽の国」と呼ばれたのである。
 ホレズム地帯の南の端にあるヒヴァは、八世紀ごろにはその名が知られていた。しかし当時は、シルクロードからカスピ海やヴォルガ川へと向かう、脇道の小さな中継の町に過ぎなかった。しかし、アムダリヤ川の水系が変わったために、町は一変したのだ。ホレズム帝国は、旧ウルゲンチにあった首都をヒヴァに移したのだった。これによりヒヴァは、十七世紀よりホレズムの政治、経済、宗教の中心地となったのである。
 その後、ホレズム随一のイスラム聖都となり、外敵の侵入を防ぐために、町は二重の城壁で囲ったのだった。
 都になったヒヴァには、大きな奴隷市場ができた。十九世紀の初めにロシアは、ロシア人奴隷の解放を口実に、軍隊を派遣してきた。
 1873年に、ウズベク人のヒヴァ・ハーン国は全面降伏して、ロシアの属国になってしまった。それを期に、奴隷市場はなくなったという。当時、ロシア人の奴隷は3000人ほどいて、健康で強靭な者は、ラクダ4頭で売られていたそうだ。



ホーム

inserted by FC2 system