二重の城壁に守られた宮殿



ゆるやかな曲線を描いた、イチャン・カラの「イスラーム・フッジャ通り」の小径を歩いて、カール・マルクス通りに出る。100mほど先は、「パルヴァン・ダルヴァザ門」と呼ばれている、東門だ。
土産店が、路上に広げた布の上に売り物を並べている。どの店も申し合わせたかのように、手編みの靴下や、花瓶敷、テーブル・クロス、スカーフなどの手作り品である。同じ品物でも、店ごとに柄や配色、デザインが違っている。
東門の脇が、「アラクリ・ハーン・メドレセ」である。このメドレセ(神学校)は、1830年から10年の歳月を費やして、アラクリ・ハーンによって造られた。北側には、キャラバン・サライとバザールがあるが、共に同時期に建てられたものという。キャラバン・サライは、現在デパートになっている。
イチャン・カラのどの路地を歩いても、黄色や薄黄色の土壁が続いている。外側から見るイチャン・カラは、強固な城壁で囲まれている城砦都市である。外敵からの侵入を防ぐために、中心部の宮殿は、二重の城壁で守られているのだ。
外側の壁は「ディシャン・カラ」といい、1842年にカラクム砂漠との境に築かれた、全長6kの城壁だ。内側の城壁は、中世ヒヴァの町を取り巻いている壁である。外壁との中が、内城「イチャン・カラ」と呼ばれている部分になる。
内城には、ハーンの宮殿やハーレムのほか、20のモスクと20のメドレセと、6基のミナレットと廟など、数多くの遺跡が残されている。1969年に内城全体が「博物館都市」に指定され、1990年には、ユネスコの世界遺産に登録された。
イチャン・カラの城壁は、高さ8mで、壁の厚さは約6mある。町を、全長2100mの壁で囲っているのだ。
ウルゲンチの方向の北門から、南門までの距離は、約650m。アムダリヤ川方向の東門から、西門までが400mある。



アラクリ・ハーン・メドレセの北隣が、「タシュ・ハウリ宮殿」である。1830年から1838年にかけて、アラクリ・ハーンによって建造された宮殿だ。「古い宮殿」と呼ばれている、「クフナ・アルク」に匹敵するものとして建てられたそうだ。鮮やかなタイルといい、豪華な装飾といい、言葉通りの華やかさである。
儀式の場や接客の間、ハーレムなど、建物が分かれている。儀式が行われる部屋のアイヴァンは、実にカラフルであり、幾何学的模様を組み合わせて、豪華さを強調している。アイヴァンを支える、長く丸い柱の浮き彫りが見事である。
レンガ積の石段を、6段上がった冬の応接間。長い柱の傍には、一脚の椅子が置いてあった。きっとその場所が、冬になると日当たりの良い場所なのかもしれない。
青タイルで装飾された、中庭を囲む二階建てがハーレムである。大小合わせて、163の部屋があるそうだ。南側の比較的大きな部屋が、ハーンの執務室と4人の正妻のものという。
宮殿やモスク、ミナレットなどに貼られた、鮮やかな色タイル。かつてなかった色のそれらのタイルは、十二世紀ごろから使い始められたそうだ。
こうして、イチャン・カラの建物を見て歩いていると、タイル造りのものが多く、もっと古めかしい遺構がない。注意して探していたのだが、見当たらなかった。ガイド氏に聞いて、その意味が分かった。
それは、中央アジアにアラブ人が侵入した、八世紀ごろ。往時は石材がなくて、日干しレンガなどの風化しやすい建材が使われたためだ。さらに、たび重なる戦乱のために、ことごとく破壊されてしまったのだ。特に、モンゴル軍の到来を境にして、中央アジアの地表は、すべて塗り替えられてしまった。そのために、イスラム以前の建物は、完全なものが一つも残っていないということである。



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