王の栄華の跡



サーマーニ公園を通り、東に1000mほど歩いたところにあるのが、「バラハウズ・モスク」である。アルク城とレギスタン広場を挾んだ場所に、1718年に建てられた、ハーン専用のモスクだ。祝いの日には、アルク城からこのモスクまで、敷かれた絨毯の上をハーンは歩いて来たといわれている。
モスクの前にはハウズ(池)があり、四方を大きな石段で囲まれている。給水口は、大理石で彫刻されていた。
礼拝の時限を呼びかける、アザーンのために使う低いミナレットがある。この塔は、十六世紀に造られたものだ。
これは最近取り付けたのだろう、モスクの入口の横には、大きな新しい看板がある。そこには、5つの時針の絵が描かれており、針は、一日5回のお祈りの時間を指しているのが面白い。
入口の正面は、高い桂で支えられたテラスになっている。アイヴァンという、ユニークな建築様式で、ブハラではここでしか見られない。20本のクルミ材の丸く長い柱には、すべて彫刻が施されている。
アイヴァンの高い天井や軒の正面は、赤や禄、空色など、カラフルに塗り上げられており、華やかな王室のモスクであることを感じさせる。



目と鼻の先に、アルク城の城門がそびえていた。この城の辺りが古代ブハラの発祥の地で、その歴史は、二千年以上に遡るといわれている。中央アジアの文化の中心地として繁栄してきたブハラは、サンスクリット語で「修道院」との意である。その威光を放ったブハラの黄金期は、九世紀のサーマーン朝時代に始まる。
宗教者や科学者、神学生、商人などが各地から集まり、歴史に残る多くの人物を輩出している。
オアシス都市を結ぶ交易の十字路としても栄え、水路も整備されて都市生活も成熟していった。しかし、1220年のチンギス・ハーンの来襲で、町は廃墟と化してしまったのだ。
十六世紀のシャイバ二朝になって、ブハラは都として再び甦った。シルクロードの面影を色濃く残すブハラの町並みは、このころに造られたものだ。今でも、ほとんど変わっていないという。ブハラは2500年もの歴史を秘めた町なのだ。 現在のブハラの町は、新市街と旧市街とに分かれていて、このように遺跡が保存されて
いる町は、旧市街であるのは当然である。 アルク城の城門の前に立つ。どっしりと構えた、重厚な城門である。城は高くてがっしりとした、強固な城壁にぐるりと囲まれている。
巨大な門から、城に人る。狭くて薄暗い石畳の廊が、上へと続いている。両側には囚人の地下室があり、当時の姿を再現した人形が置かれてあった。



さらに石畳を上ると、両側の部屋や外壁の前には、土産物が並べられていた。メドレセの中庭を囲む部屋も、だいたいが土産屋となっていたが、城内も同じであるとは驚いた。
石畳を上り切ると、明るい目差しが差し込んだ、中庭に出た。白壁の隅には錆付いた一門の大砲があり、
傍には、十数個の白くて丸い砲丸が、無造作に置いてあった。一室は博物館になっており、アルク城の残虐な刑の場面や、奴隷たちの暮しなど、往時の生活記録が展示されている。
また、ウズベキスタンの動物の剥製などもあった。
モスクや玉座の間から、ハーンの居室を通って謁見の間に出る。長い柱で、テラス状に組んだ高い屋根。その中央には、玉座がある。石段を10段上ったその場所に、かつてはハーンが座っていたのだろう。
王に謁見を賜って帰るときは、王に後ろ姿を見せてはいけないのだ。そのため、幅が2mほどある石壁まで、十数歩後退りしてから、壁の横を通って後ろの出入口から、出て行くという。
アルク城は、波瀾万丈の歴史を歩んできた。七世紀には、女王フッタ・ハウトンがアラブ軍と戦い、十三世紀には、モンゴル軍が来襲した。チンギス・ハーンは、城に立てこもった多くの町民を虐殺したという。 城も破壊され、後に建て直されたのだ。その後も再三、外敵に破壊され、その度に建て直しを操り返したそうだ。現在の城は十八世紀のもので、1920年にロシア赤軍に攻略されて滅亡するまで、歴代ブハラ・ハーンの居城だった。



どの時代のハーンも残虐な圧政の化身で、反抗した者は、容赦なく虐殺されたそうだ。ブハラで一番多くの流血を見た場所が、このアルク城だという。
城壁の上に立ち、処刑の場だった城門前の広場を見下ろす。
子どもたちは、はしやぎながら追いかけ合っている。手を取り合ったカツブルは、楽しそうに浮かれている。子どもの手を引いた家族連れは、ゆったりと歩いていく。幸せそうな、そんな平穏な情景を跳めていると、往時の血生臭い出来事など想像すらできない。
辺りをぐるりと見渡すと、ブハラの町を一望に収めることができる。まさにここは、町を眺める見晴台である。



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