オアシスの残影



小奇麗なレストランでのランチ。その郷土料理は、旨かった。具のたくさん入った牛肉のスープ。ひき肉と野菜が詰まった、ロール・キャベツ。ウズベキ判焼飯のプロフは、羊肉とニンジンが入っていた。さらりとした油での炒め具合が、ちょうど良かった。
プロフは、「素材や料理法によって地方色が現われている」といわれている。事実、具やスパイス、飯の炒め方などは、店によって違っていた。
特筆すべきは、この地のキムチだろう。バザールではよく見かけた、日本でもお馴染みの漬物だ。韓国の漬物がここまで来たのは?
それは、第二次世界大戦による。スターリンによって、中央アジアに強制移住をさせられた、「カレイツイ」と呼ばれていた朝鮮人によって、広められたのだ。今では、ウズベキスタンを始め、中央アジア一帯に広がっているという。
昼食後は、近くの「タキ・ザルガラン」から歩き始めた。タキとはバザールで、普通のバザールと違うところは、大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールだ。ここは、タキの中でも一番大きなバザールという。その周りには、職人の仕事場や、旅人のためのキャラバン・サライや風呂場まであるそうだ。むろんここは、車は通れない。
それは、その昔のオアシス時代の名残といえよう。そんなタキは、宝石商市場とか、帽子市場、両替屋など、商う種類によって分かれている。つまり、同じ商品の店が寄り集まったバザールなのだ。
「タキ・ザルガラン」は、宝石商の市場である。華やかなペンダントやブローチ、指輪などが、どの店も、所狭しと並んでいる。女性たちの目は小さな石に吸い寄せられて、宝石よりも輝いている。
十字路市場のタキから、フッジャ・ヌラバッド通りを100mほど行くと、「ウルグベク・メドレセ」だ。十五世紀の初めにウルグベクにより建てられたもので、現存する中央アジアで最古の神学校という。ウルグベクゆかりの建物は、サマルカンドに多く残っているが、ブハラでは、このメドレセだけである。
各壁面には、彩釉タイルによる、植物や星などの幾何学文様の装飾が鮮やかだ。扉には、ウルグベクの格言が書かれているが、まるで模様のような文字である。ガイド氏によると「向学心こそ、ムスリムになくてはならぬもの」と彫られているという。



道路を隔てて向かい合っているのが、「アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ」である。ウルグベク・メドレセが建てられてから、200年以上経ってから建てられた神学校である。中庭を囲んだ二階には、アーケード状の部屋があり、夏の礼拝室と冬の礼拝室が造られている。
ウルグベク・メドレセから200年の間に、色彩も豊かになり、装飾も、インドやオスマン帝国からの影響を受けている。イスラーム建築が、かなり変化したことを物語っている、メドレセである。
土造りの家々が建ち並ぶ、オアシスの町の面影を色濃く残した、曲がりくねった路地を通る。擦れ違う人々は、民族衣装を着た女性や、ドッピと呼ばれる角帽を被った、年配の人たちが多い。
子どもたちは、車の通らない道端で遊んでいる。我々に気付くと、無邪気な笑顔を向けてくる。その度に、わたしは目を細めて、見詰めてしまう。
立ち話をしている女性たち。通り抜ける、野菜を手にした男たち……などなど、市井の人々の生活が窺われる。
500mほど歩くと、アンバール通りの十字路の角に、「マゴキ・アッタリ・モスク」の土色の建物が見えてきた。
「マゴキ」とは、「穴の中」との意で、実際に埋もれていたものを、1936年に、ロシアの考古学者によって掘り出されたという。現在の建物は、周囲を5mほど掘り下げて、周りの土を取り除き、穴の中に掘り出した状態のなっているそうだ。そのため、埋もれた建物のように見えるのだ。
壁面は、三層に分かれている。下は、彫刻されたレンガ層で、その上はアラベスク模様だ。その上の三層目に、一番新しい層がある。破壊されるごとに、その上に建て増していったことが分かる。壁面は、このモスクが辿った歴史を、物語っている。
この場所は、アラブに支配されるまではバザールで、ゾロアスター寺院もあったという。その後、焼失したこともあり、アラブ軍やチンギス・ハーンにも破壊されて、現在の姿に再建されたのだ。



モスクの側の交差点にあるのが、「タキ・テルパクフルシャン」だ。ここは、帽子の市場で、さまざまな色や形のドッピなどが並んでいる。
アンバール通りを300mほど東へ行くと、ラビハウズに出た。「ハウズ」とは池の意で、市民の憩いの場となっている、町中の池だ。
四方を石で組んだ、プールのような矩形の池の周りは、樹齢何百年にもなろうと思われる、老木が茂っている。池の四隅には石段があり、下りられるようになっている。それはかつて、ここで水を汲み、洗濯するのに使っていたという。
池の傍には、テントの屋根を張ったチャイハナがある。ベッドの真ん中に、座卓を置いたような席が数台、行儀よく並んでいる。
池の横の建物が、「ハナカ(巡礼宿)」だ。レンガ組みの一段下がった中庭には、ブドウ棚が造ってある。旧時のキャラバン・サライ(隊商宿)のこの庭で、ラクダが寝泊りしていたという。



木々の茂った、ラビハウズとメドレセとの間に、「ラビハウズ公園」がある。そこには、奇妙な恰好をした銅像があった。
ロバにまたがって手を挙げ、ふざけているような男の像だ。これは、イスラム神学者である、フッジャ・ナスレッディンの像である。彼の授業は、いつもユーモアに溢れていて、学生たちの人気者だったという。それゆえ、このようなユーモラスな銅像になったのだろう。
公園の隣が、「ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ」の正面入口となっている。ここは昨日、中庭で民族舞踊を観ながら、ディナーを楽しんだメドレセである。暗くてよく見られなかったメドレセのアーチも、今日はよく見られる。
鮮やかな色タイルは、二羽の鳳凰が白い鹿をつかんで、太陽に向かって飛んでいる絵だ。太陽の真ん中には、顔が描かれている。これは、偶像崇拝を否定するイスラム教義に反している、ユニークなものだ。
中庭を、ぐるりと囲んでいる建物。そのどの部屋も、民芸品店になっている。陶器、スザニ、ミニアチュール(細密画)、木彫の像や本台、彫金の皿……などなど。
ウズベキスタンの陶器は、リシタンやギジュドゥヴァンなど知られている。リシタンは、フェルガナ盆地の南端にある町で、ギジュドゥヴァンは、ブハラの北東46kにある町だ。どれもカラフルで、どちらかというと、飾り皿に向いている。
スザニは、各地方でそれぞれ違う、独特の刺繍模様をした布だ。壁掛や、テーブル・クロス、ベッド・カバーなど、さまざまな用途に使われている。デザインもユニークで、手の込んだ刺繍が施されており、男のわたしも思わず手にとってしまう。



座蒲団カバーや小物入れなどのスザニや、絵皿などは、ヒヴァの民芸品店でだいぶ買った。ここでは、ウィンドー・ショッピングを楽しみながら、次々と店を冷やかして歩く。どの店も商売気がないので、気兼ねなく見られるのがいい。
彫金店の前では、小さな真鍮の壺に模様を刻んでいた。中年の職人は、小さな一本のタガネと小ハンマーで、器用に彫り込んでいく。
わたしがじっと見詰めていると、店の中から店主が出て来た。黒いドッピを被った、小太りの高年氏だった。わたしの髭が後退りしてしまうほど、立派な白鬚を蓄えている。
ニコニコしながら、一言二言わたしに話しかけてくるが、ウズベキ語なので何を言っているのか分からない。艶のある顔の店主は74歳だと、近くにいたガイド氏が言った。わたしは、老翁と肩を組んで、記念撮影をした。



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