ナヴォイの町



バスはサマルカンドへ向けて、エンジンを高鳴らせていく。
この辺の畑は、ジャガイモやニンジンなどの根菜類が多い。日本のウドンのような、ラグマンの中にもいっぱい入っていた。焼飯でもあるプロフにも、羊肉と一緒にニンジンは、いつも混じっていた。
それに、タマネギ畑やカボチャ畑も、そこここにある。ウズベキスタンでは、肉と一緒の煮込み料理が多いので、野菜類は豊富である。
道路の両側のポプラは、大木である。青々としたポプラ並木は、心地好い。しかしそれも、すぐに途絶えてしまう。すると、「折れてしまうのでは?」と案じるほど、か細いポプラの苗木が定間隔に植えられていた。生長の早いポプラなので、十年も経てばきっと、立派な並木道になるだろう。
沿道の家々のどの庭にも、ブドウ棚がある。ちょうど、若葉が出始めたところであり、その緑は初々しい。
点在する民家と畑が、どこまでも続いている。この辺は麦畑である。そんな単調な、車窓からの飛び行く田園風景を眺めていると、ウトウトとしてくる。しかし、道路が悪くなってきたので、バウンドする度に目覚めてしまう。
急ブレーキに目を開けた。車窓を見渡すと、すっかり情景が変わっていた。ナヴォイの町に入ったのだ。時計を見ると、12時10分を指していた。
ここでバスは、近くの給油所へ行くので、我々は車から降りた。
ロータリーの中央にはナヴォイ像があり、周囲には、小さな店が軒を連ねている。



見る間に、子どもたちが集まってきた。その後方では大人たちが、奇異な眼をこちらに向けていた。
笑顔でこちらを見詰めている、10数人の子どもたち。きっと、小学校に通う男の子と女の子なのだろう、手にはカバンを持っている。どの子も、あどけない笑顔である。カメラを向けると寄り添うようにして、まばたきもせずに視線を外さない。
撮り終わってから、デジカメのモニターを見せる。すると、写っている自分の姿を確認した子は、大はしゃぎである。隣の子や後ろの子に、指を差して教えている。子どもたちは次々と、わたしが手にした小さなモニターを覗き込む。
満面に笑みを浮かべて、喜ぶ子どもたちの姿を見ていると、今すぐにこの写真をあげたいと思う。しかし誰一人として、欲しがらないのだ。
わたしの横で、遠慮がちにしている三人の男の子。彼らにカメラを向けると、肩を組みあって、頬を寄せ合っている。背丈も同じぐらいの三人組は、きっと「仲良しトリオ」に違いない。



 そのなかの一人の子は、日本語で、20までの数が数えられるのだ。何度もやってもらったが、一度も間違えがなかった。わたしはびっくりしながら、彼の顔を見入ってしまった。きっと、ここに日本人が来たときに、教えてもらったのだろう。
遠巻きにしていた大人たちも、しだいに近づいて来た。大柄な中年夫妻は、「撮ってくれ!」と言わんばかりに、わたしの前に立ちはだかった。二人は肩を組み合って、ポーズをとっている。これでは、シャッターを押さないわけにはいかない。撮り終わると二人は、満足したかのようにニコニコしながら、どこかへ行ってしまった。
6〜7人の男たちが、わたしに近づいて来て、なにやら言っている。言っていることが分からないが、「全員で撮ってくれ!」との身振りのようだった。わたしがカメラを向けると、近くにいた中年男たちも小走りに集まってきた。肩を組み合って、男たちは並んだ。
シャッターを切ってからモニターを見せると、みんな驚きの表情だった。
男たちの中で一番年長者と思われる、五十路ほどの日焼けした男性。わたしの一眼レフデジカメを指差して、繰り返して言う。
「ダラ・ダラ・ダラ……」
一瞬、何のことかと首を傾げたが、何ドルかと、値段を聞いていることが分かった。わたしはカメラの値段を、英語で言った。しかし、分からないようなので、持っていたメモ用紙に書いて見せた。すると日焼氏は値段が高くて驚いたのか、目を丸くして口を開けたまま、何も言わなかった。
青年たちは、わたしのことを「コリア、コリア」と、口々に言う。「何でかな?」と思ったが、彼らが指差している、駐車している車を見てすぐに分かった。



この辺に駐車している、いや走っている車は、みんな韓国製だった。アジアのどこでも普通に目にする日本車は、ここでは一台も見かけなかったのだ。
男たちの期待に添えなくて言い難いが、わたしは胸を張って答えた。
「ジャパン」
すると一人の青年が、ピンポン玉を返す早さで言った。
「ホンダ」
わたしは、「ホンダ、トヨタ、ニッサンは、いい車だ!」と英語で言う。すると彼らは、会話の練習をするかのように、何度も車の社名を繰り返していた。
給油を終えたバスが来たので、彼らや子どもたちに手を振って別れた。
ロータリーの中央に、立派なナヴォイの銅像がある、このナヴォイの町。文学者のアリシェール・ナヴォイの名をとって、町の名にしたのだ。タシケントの「ナヴォイ劇場」も彼の名だったが、現在でも「ウズベク文学の父」として、英雄的扱いを受けているのだ。
1441年生まれで、60歳でこの世を去ったナヴォイ。彼は、ペルシャ系タジク語に文学が支配されるなか、トルコ系チャガタイ(古ウズベク)語に文学的価値を与えた詩人である。



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