古都・サマルカンド



沿道は、しだいに集落が大きくなっていった。遠方には起伏の緩やかな、青い草原が広がり、その背後には、雪を頂いた峻嶺が壁のように続いていた。「ヒンドゥークシュ山脈かな?」と思った。しかし、いくら高いからといって、「アフガニスタンとパキスタンの国境の山は、ここから見える訳がない」と、すぐに気付いた。
そんなとき、マイクを手にしたガイド氏が、こちらを向いて言った。
「雪を被った山が見えます。ザラフシャン山脈です」
しばらく、雄姿をひけらかせていた、雪の連山。それも、しだいに見え隠れしながら、遠ざかっていく。すると、そんな風光と反比例するかのように、道路沿いの家々は密集していった。建物も大きく、立派になってきた。サマルカンドも、もう近いだろう。
「青の都」とか「東方の真珠」などの異名をもつサマルカンド。かつては「マラカンダ」と呼ばれていた。その都市を反映させた担い手は、商才と工芸技術に長けた、ソグド人だ。
サマルカンドが、初めて世界に知られるようになったのは、紀元前四世紀だ。アレキサンダー大王の遠征軍が、到着したときのことだった。このとき大王は、「話に聞いていた通りに美しい。いや、それ以上だ」と、言ったという。
その「青の都」は、1220年のモンゴル軍の攻撃で、町に住んでいた四分の三以上の人が殺戮(さつりく)されてしまった。アフラシャブの丘にあった町は破壊し尽くされ、無人の荒地と化した。



サマルカンドを甦らせ、「青の都」にしたのが、ティムールだ。ヨーロッパ人には、「タメルラン」との名で知られているティムールは、彼好みの青色をふんだんに使って都を築いたのだ。中央アジアでは、「チンギス・ハーンは破壊し、ティムールは建設した」といわれている。
現在のサマルカンドの町を大別すると、三地域に分けられる。旧市街と新市街、それにアフラシャブの丘だ。旧市街の中心はレギスタン広場で、その東側に、迷路のようになった旧市街が広がっている。賑やかなのは、西側にある新市街である。
バスは、賑わったブリバール通りに入る。両側から覆いかぶさってくるほど見事な、スズカケの大樹の街路樹である。
ロータリー状になった道路の中央には、ティムール像がある。右折して、400mほど行った街の中心部に、今日から三泊する予定の「A・Pホテル」があった。プールもある、近代的な造りのホテルである。
ちょうど2時になったところだ。ホテルのレストランで遅い昼食をとってから、部屋に入る。4時から、近くにある「歴史国立博物館」へ行く予定だが、しばらく時間がある。トランクの中身を整理してから、冷えたビールを飲みながらガイド・ブックを広げ、予備知識を蓄える。
ホテルから、ブリバール通りを西へ向かって、歩いて行く。800mほど先のタシケント通りとの交差点にある、ユニークで大きな建物が、「国立文化歴史博物館」である。
ここには、ウズベキスタンの民族文化や歴史が一目で分かるように、さまざまな分野に分けて展示されている。陶磁器、民族衣装、絨毯、帽子……などなど。
偶像崇拝を禁止している国でありながら、仏像なども展示されているのは面白い。南部の都市・テルメズは、アフガニスタンと接しているので、きっと、ガンダーラ仏が入ってきたのかもしれない。今でもこの地方には、仏教寺院や僧院があるそうだ。



興味あるのが、ティムールの棺である。黒色の木製の棺である。今は「グリ・アミール廟」に、ティムール一族とともに葬られているが、その以前には、この棺の中に眠っていたという。
ティムールは大柄な人物と、どの書物にも書かれている。しかし、目の当りにする棺は、思っていたよりも小さかった。それに、簡素な作りだった。首を傾げつつ、わたしは言った。
「思いのほか質素だねえ」
すると、傍にいたガイド氏が言った。
「イスラムの風習により、白布一枚をまとった姿で葬られたからです」
つまり、豪華に着飾っていないために、最小スペースでよかったということなのだ。
ティムールが1405年、中国遠征の途上に急死したときは、69歳だった。前年、彼に会った使節の話では、「背が高くてがっちりしているが、病身老齢であった」と、報告している。
ティムールは、熱病で死んだといわれているが、苛酷な遠征により、急速に体力を衰弱させてしまったのだろう。永眠する彼の姿はきっと、往年の頑丈な容姿とはかけ離れていたかもしれない。
階下には、たくさんの絵日記が展示されていた。画用紙の絵の下に書かれた文字は、どれも日本語だった。背後にいた、ガイド氏は言った。
「交流のある、日本の学校から送られてきたものです」
1時間半ほどの見学を終えて、ホテルへ戻った。7時半に、地階のバーでの夕食予定だ。2時間ほど時間がある。ゆっくりと足を伸ばして、湯に浸かろう。



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