中心地・レギスタン広場



サマルカンドの中心部へ、戻った。ここは「レギスタン広場」で、チンギス・ハーンの来襲以後、アフラシャブの丘からこの地に移り、サマルカンドの商業の中心地となった。
ティムールの時代になると、大きな屋根付きのバザールが造られた。孫のウルグベクの時代に入り、最初のメドレセが造られた。
広場を挟んで、三つのメドレセが建っている。左側が、「ウルグベク・メドレセ」だ。
右側と正面のメドレセは、シャイバニ朝の支配者のヤラングトシュ・バハドールによって建てられて、今の向かい合った姿になったのだ。
ウルグベク・メドレセは、1420年に建造された。当時、100名以上の学生が寄宿していたという。学生たちは、イスラーム神学や数学、哲学などを学んでいたという。天文学者でもあったウルグベクは、自ら教壇に立ったのだ。
アーチの両側には、ミナレットがある。これは、空を支えるための塔だといわれている。北側のミナレットが、やや傾いている。それは、空の重さで傾いたのだという。イスラムの信者たちが、勝手な屁理屈をこねているようで、面白い。



ウルグベク・メドレセと広場を挟んで向かい合っているのが、「シェルドル・メドレセ」である。このメドレセは、ウルグベク・メドレセを摸倣して、17年の歳月をかけて、1636年に完成したものだ。建造場所が真向いにあるので、模倣し易かったことだろう。
建物の形と大きさは、コピーそのものだ。しかし、アーチに描かれたタイル模様が、まるで違っている。メドレセの名の「シェルドル」とは、「ライオンが描かれた」との意だ。その名の通り、入口アーチには、小鹿を追うライオンが描かれている。
しかし、一見したその姿は、虎のようだ。ライオンの背には、人面を帯びた日輪が描かれていた。他に例を見ない、独特な絵である。
偶像崇拝を否定する、イスラム教。あえて描いているのは、シャイバニ朝の支配者が権力を誇示しょうとしたためらしい。メドレセを造った建築家は、責任をとって自殺したと言い伝えられている。
イスラムの教義により、偶像崇拝が禁じられているために中央アジアでは、人物や生物をモチーフにした絵画や彫像美術は、まったく発展しなかった。その代わり、精密な幾何学模様やアラビア文字を図案化した、カリグラフィー(筆描・筆法)などが独特の発展を遂げて、多くの建造物を飾ったのだ。さらに、唯一の例外として、ペルシア文化の流れを引く、ミニアチュール(細密画)が挙げられる。
平板な画面に、宮廷生活や狩の場面などが描かれ、当時の生活を彷彿とさせる。詩集や歴史書の挿絵として、好んで描かれたものだという。現在でもウズベキスタンでは、その技術が受け継がれているそうだ。



広場を挟んで、コの字型に並んだメドレセの真ん中にあるのが、「ティラカリ・メドレセ」だ。レギスタン広場から見て正面に当り、1660年に建てられた神学校だ。
巨大なアーチの入口から、中に入る。中庭に出ると、左側に青色のドームがそびえており、礼拝所となっている。
内部の壁や天井は、黄金色に輝く華麗な装飾がなされている。その内装から「ティラカリ」、つまり「金箔された」との名が付けられたという。その豪華な装飾の修復には、三キログラムの金が使われたという。
当時、すでにビビハニム・モスクが廃墟と化していたため、このメドレセが、サマルカンドの主要礼拝所として使われていたそうだ。メッカの方角を示すミフラーブ(壁面の窪み)や壁面は、星と植物、アラビア文字をモチーフにした模様で飾られている。



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