ティムールの宮殿跡



昼食後、この民家レストランから程近い、「アク・サライ宮殿跡」を訪れる。
この宮殿は1379年に、ティムールがホラズムから連れ帰った、捕虜によって建てられたのだ。1380年に着工されたが、完成したのは1405年で、ティムールはすでにこの世を去っていた。建設には、25年余りを費やした計算になる。それだけ、壮大な建造物だったのだ。
「アク・サライ」とは、「白い宮殿」との意だが、実際には、青と金色のタイルで装飾された宮殿だったという。白は「高貴」という意味から、その名で呼ばれていたそうだ。
遺構の前に立つ。しかし、宮殿の面影はまったく感じられず、眼前にあるのは、崩れかかった入口のアーチの残骸のみだ。このアーチ。高さは38mあるが、当時は、50m以上あったという。
ティムールが好きだった青色タイルは、すっかり剥落している。レンガ積みの茶色の地肌をあらわにした遺構からは、往時の華やぎなどまったく感じられない。
門の上部は、今は崩れ落ちてしまっている。そんな様は、小道を隔てた左右に高層の建物が二つ、並んでいるように見える。
当時は立派な入口だっただろう、その建物の間を通って内部に入る。しかし、公園のように植えられた大樹が青々と茂っているだけで、建物の跡すら残ってはいない。
木陰に入り、裏側よりアーチを見上げる。すると、この北側の上部の方には、まだかなりの部分に、彩色タイルが残っている。ティムール色の青を基調にして、緑、黄色などの幾何学的模様が、鮮やかな色彩を放っている。トルコ石のような空色が、強い陽射しを受けて華やいでいる。



正面から向かって右側のアーチは、上部まで上れる階段が解放されていた。足元に気を付けながら、薄暗く細い石段を上って行く。ブハラのシンボルのカラーン・ミナレットを上ったときほど、暗くはなくて歩きやすい。そのぶん、足も速くなり、しだいの息も切れてくる。
上部がしだいに明るくなり、暗闇の螺旋階段を上りきると、開けた屋上に出た。
素晴らしい眺望である。緑に囲まれた町全体が見渡せる。眼下にはティムール像が、町を見下ろすように立っていた。木々と入り交じった民家が広がり、青色の丸屋根のモスクが、いちだんと高くそびえている。
小高い山々の背後には、雪を頂いた山々が、その白衣をひけらかせている。後から取り付けられたと思われる、鉄柵に体をもたれかけながら、しばし絶景を楽しんでいた。それにここは、かすかに風も通り抜けて行き、暑い下にいるよりも心地好い。
目が慣れたせいか、薄暗い石段をあっという間に下がって、地上に下りた。下で待っていたガイド氏は、アラビア文字の説明をしてくれた。
アーチの左側の円柱には、アラビア文字が書かれている。それは、「スルタン(皇帝)はアラーの影である」と書いてあるという。右側の円柱にも書かれているが、「スルタンは影である」としか書かれていないそうだ。伝説によると、この誤りを刻んでしまった建築家は、アーチの上から投げ落とされてしまったという。スルタンとは、むろんティムールのことである。



入口近くに戻ると、いつの間にか即席屋台ができており、女性や子どもたちの物売りが集まってきた。売り物は、テーブルクロスやマット、小物入れなどのスザニである。
さまざまな、ユニークな模様が刺繍されており、思わず手にとって眺めてしまう。それに、値段もそこそこである。
商売上手な、小学生ほどの女の子。わたしは土産にと、小物入れを数点手にして、値切っている。すると彼女は、刺繍をしてある面積で説明してきた。つまり、面積と刺繍にかかる時間とで、値段を決めてくるのである。見本を見せつつ、わたしが値切っているスザニと比較しながら、手間代を説明するのだ。
言葉が分からなくても、その論理的な説明は頷ける。きっと、母親から教わったのだろう、やや理屈詰めだが、実に説得力がある。わたしはスザニを両手に持ちながら、利発な彼女の顔を唖然として見詰めていた。
傍らで、わたしと少女のやりとりを見ていたSさんは言った。
「将来きっと金持ちになる子どもだ」
わたしは、Sさんと顔を見合わせながら頷いた。



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