ティムール像を前にして



アク・サライ宮殿跡の入口から、南に向かって大理石が敷き詰められた、中庭が広がっている。かつては、宮殿のあったところだというが、今では旧時の面影は、まったく留めてはいない。現在は「ティムール広場」になっていて、円形に囲まれた中心は、ティムール像が建っている。
アーチの屋上から眺めたティムール像は、さほど大きさを感じなかった。しかし、こうして近くで見上げていると、かなり大きな像である。王冠を被ってマントを羽織ったティムール。左足を半歩前に出し、首をやや左に向け、遠くを見詰めるようにして立っている。その理知的な表情と、がっちりとした肢体から、深い思索力と、力強いパワーが溢れている。中央アジアを征した指導者の風格が、十二分に感じ取れる像である。
彼は自身の生まれ育った地に、巨大な宮殿を始め、多くの建造物を築いた。それは、ティムールの造り上げた、青の都・サマルカンドにも引けを取らないほど、壮大な建築群だった。
こうして、かつての宮殿跡に建つティムール像は、彼の生まれ育ったシャフリサーブスの町を、しっかりと見据えている。この像は、ティムールにとっても、市井の人たちにとっても、誉れ高きシンボルであろう。
1336年に、この地シャフリサーブス(ケシュ)で生れたティムールは、破壊もしたが、偉大な建設者でもあるのだ。彼はこの生れ故郷の地を地盤にして、抜きんでた才能を、しだいに発揮してきたのだ。
ティムールは、若いときから乗馬と弓が得意で、バルラス部族の同輩の間で、指導者としての頭角を現していたそうだ。



若いティムールは、いつも4,5人の家来をつれて、近隣から羊や牛などを奪っていた。青年時代はもっぱら、羊や馬、牛を略奪する盗として過ごしていたようだ。
やがて、よく武装された騎馬隊が形成された。当時の封建的な無政府状態のもとで、近隣の住民や、付近を通るキャラバンを襲って、略奪を繰り返していた。
ティムールは、仲間たちに気前よく、戦利品を分け与えていた。そのために人望は高まり、家来が300騎余りに増えていったという。こうして、盗賊団の首領として各地を略奪して回るティムールは、カシュカ・ダリヤ一帯のバルラス部族間の中で、有名になったのだ。
ティムールは少年のときから、テュルク語とタジク語を自由に話し、遊牧民だけではなく、定住農耕民の生活をよく知っていたという。こういうところからも、ティムールに対する尊敬の念と、信頼と期待が、家来たちから高まっていったのだろう。
ティムールが歴史の表舞台に登場したのは、1360年、彼が24歳のときだ。モグーリスタン(東チャガタイ・ハーン国)から、チャガタイ・ハーン国の再興を目差して、トグルク・ハーンが侵入してきたとき、ティムールは家臣となった。彼は、南ウズベキスタンのカシュカ・ダリヤ流域を任された。領地はさほど大きくはないが、軍管区の領主として、政治的活動への第一歩を踏んだのだ。



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