ティムールが造った自身の廟



ティムール広場から、町の真ん中を南北に貫いている、イパク・イューリ通り。ここを1・5キロほど南に行くと、「ドルッサオダット建築群」である。
バスラティ・イマーム・モスクから、中庭を通って行く。前方の半ば崩れかけた建物は、ジャハンギール廟である。22歳の若さで戦死した長男のために、ティムールが建てた廟だ。色タイルは総て剥離して、レンガ積みの壁面を晒しているが、巨大な建物である。辺りに鳥の糞が点々としており、今では、鳩たちの館となっている。廟の前には、かつての建物の基礎だけが残っている。その跡が示すように、ここには広い範囲に建物が建っていたことが分かる。「ドルッサオダット」とは、「大いなる力の座」との意である。
ティムールの次男のオマル・シェイフ廟は、南側にあり、現在は墓石だけが残っている。
バスラティ・イマーム・モスクの東側には、見逃してしまうほど質素な墓室がある。これが、ティムール廟である。崩れた建物は、補修すらされていない。
辛うじて残っている入口の石段から、地下室に入る。
入口から、日差しが入ってくるが、暗さに目が慣れるまで、しばらく辺りがぼんやりとしている。狭く薄暗い墓室の中央に石棺があり、周囲の石壁とのスペースはさほどない。
重厚な棺に、顔を近づける。磨かれた石の縁に沿って、文字や気品のある幾何学的模様が描かれていた。荒々しい石組みの墓室の中にある、そんな優美な石棺は、場違いのように思われる。
しかし建設された当時は、墓室はきっと、華やかだったに違いない。美意識の高い、ティムール自身が造ったのだから。でも埋もれてしまってから長い年月が経ち、その煌めきが失せてしまったのだろう。
長い間、崩れ落ちた建物の下にあった、この墓室が発見されたのは、1943年のこと。ここで遊んでいた子どもが、瓦礫の穴に落ちたことにより分かった、まったくの偶然のことだったのだ。
ティムールが、河童のように子どもの足を引っ張って、自身の居場所を教えたと思いたい。しかしティムールが、自身のために造ったこの墓室には、眠っていなかったのだ。「故郷の土に眠る」という彼の意に適わず、サマルカンドの「グリ・アミール廟」に葬られたのだ。そんな、ままならぬ願いも、広大な中央アジアを支配した、制覇者の宿命だったのか。



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