大制覇者ティムールの群像



ティムールは、69歳で死没するまでの35年間は、絶え間のない遠征を敢行していた。彼の最後の遠征は、
1405年の早春、年来の宿願だった明帝国(中国)だった。その途上、結氷したシル川を渡ってオトラルへ着いたとき、熱病にかかり波乱に満ちた生涯を閉じたのだ。
「風邪をこじらせて肺炎のため」とも、「異常な寒さをしのぐため、酒を飲み過ぎたため」とも、言われている。いずれにしても、彼の悲願だった、中国征伐の野望は断たれたのだった。
チンギス・ハーンの偉業を崇拝し、その伝統を継ぐことを終生の念願としていた、ティムール。十進法に倣う軍隊組織も、チンギスハーンの伝統を受け継いでいた。
チンギス・ハーンの軍隊の主力は、遊牧民だった。しかしティムール軍は、定住民が遊牧民と同じくらいに、大きな役割を与えていたところが違っていた。
ティムールは、遊牧民の伝統を継承しながら、定住民の経済力を尊重し、高い文化を築いていった。すなわち、蒙古人の武勇と、イスラム文化を融合させたのだ。チンギス・ハーンがほとんど興味を示さなかった、文化事業にも力を注いだティムールは、美意識も兼ね備えていた。
将棋が好きだったというティムールは、遠征中はいつも、「読み手」を伴って、暇を見つけては本を朗読させていたそうだ。特に歴史書が好きだったが、医学や天文学、数学、建築などに関心を持っていたという。
彼はテュルク語とタジク語を自由に話せたが、読み書きはできなかったそうだ。しかし、面会した人の誰もが、「ティムールは教養のある人」との印象を受けたという。



ティムールは、逆境にあっても悲しまず、栄華のうちにも冷静さを失わず、活気に溢れていたという。支配者として、必要不可欠な条件を満たした彼の性格は、天性のものだったのだ。
彼の異名の「ティムール・ラング」とは、「びっこのティムール」との意味だ。これはティムールが、戦で足を負傷してから付けられた、あだ名である。彼が27歳のときに、イラン東部のシースターンの戦いで、右足と右手に重傷を負った。以後、右足が不自由になってしまったのだ。
この時代ティムールは、最後のチャガタイ・ハーンの孫だった、フセインと親しくなった。ティムールは、フセインの妹のウルジャイ・トゥルカン・アガと結婚した。彼は、フセインと協力し合って各地で戦ったが、資金の問題で、しだいに両者の溝が深まっていった。
1366年、ティムールが30歳のとき、愛妻のウルジャイ・トゥルカン・アガが死に、それを機に、フセインとの仲がさらに悪化していく。
遂に来るときがきて、1370年、ティムールはフセインと戦うことになった。
彼の優勢のうちに戦いは終わり、フセインを倒したティムールは、マー・ワラー・アンナフルの最高実力者となる。彼が34歳のときだった。
その年彼は、チャガタイ系子孫のひとりを名目上のハーンに迎えた。さらに、一族の女性と結婚して、アミール(太守)の名を名乗った。こうしてティムールは、西トルキスタンの事実上の支配者にのし上がったのだ。
マー・ワラー・アンナフルの統一以来、ティムールはオスマン軍を撃破して、大戦果をあげた。さらに、東は中国の辺境から、西は小アジア。南はインド北部から、北は南ロシアの草原地帯に至る、広大な世界帝国を築いたのだ。そのティムールの遠征は、モンゴルの遠征に勝るとも劣らぬ、破壊活動の連続でもあった。



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