日本兵捕虜が眠る日本人墓地




早いもので、ウズベキスタンに来てから8日間が過ぎた。タシケントから始まり、オアシス都市のヒブァ、ブハラ、サマルカンド、シャフリサーブスなどの遺跡などを巡り、再びタシケントへと戻った。今日の深夜に空港を発つと、明朝にはソウルに着く予定だ。乗り換えて成田には、昼過ぎには着くだろう。
この旅で不思議に思ったことは、犬や猫をほとんど見かけなかったことだ。ヒブァからキジルクム砂漠を通過する折に、沿道で犬を見かけただけだった。
今まで旅したアジアやヨーロッパの国々では、どこにでも見かけた犬や猫だったのだ。ましてや日本では、シャム猫やペルシア猫は誰でもが知っている猫名だ。ペルシア猫がわんさかいるのかと思ったら、さにあらず、見られなかったのが残念だ。遊牧対象の羊や馬、牛は多いが、犬猫などのペットの数が極端に少ないのは、なぜだろう。
この旅の最後に訪れる地は、旧日本兵の捕虜が眠っている、「日本人墓地」だ。ここは、旅のスケジュールには入っていなかった場所だった。しかし、「ぜひ訪ねたい」との我々の意向を、ガイド氏は汲んでくれらのだ。予定のコースを繰り上げて、急きょ取り入れてくれた厚意に感謝、感謝! である。
バスは賑わった市街を出てから、南西の郊外へと向かう。しばらくすると、樹々に囲まれたムスリム墓地に着いた。
モスクのゲートのような立派な門を通って、中に入る。
小道の両側には、丈の低い草が茂っている。木の間越しに、ムスリムの墓が続いている。どの墓石も、厚板状の石を立てたものだ。形も、不規則な長方形である。
驚いたことに、どの墓石にも、似顔絵が描かれているのだ。それは、写真のように細密な、肖像画である。その下に、名前と年代が表記されている。
黒色の墓石に描かれた、小太りの似顔絵の女性は、1995年に62歳で亡くなっている。
ウズベキスタンでは、ペルシア文化の流れを引く細密画の技術が、現在も受け継がれている。きっとその技術を、ここにも活かしたのであろう。
それにしても、木々の生い茂る薄暗い場所に、微笑する顔の群れが並んでいるのは、不気味な情景でもある。
小道を進んで行くと、木立に囲まれた一番奥に、日本人の墓地があった。
草ひとつ生えておらず、ムスリムの墓とは違い、手入れが行き届いている。近くに、墓標を洗っている中年男性がいたので、彼が管理しているのだろう。わたしは、その男性に頭を下げた。
地面には、墓石が規則正しく配置されている。それは、小さな長方形のテーブルが、ずらりと並んでいるような様でもあった。



二枚の石版をA字型に立てた、高さ二メートルほどの記念碑がある。正面には大文字で、「永遠の平和と友好不戦の誓いの碑」と刻まれた、金属片が埋め込まれていた。1990年に、日ソ親善協会福島県支部によって造られたことが、刻まれている。
裏側を見ると、79名の埋葬者の氏名が彫り込まれていた。「きっと、ナヴォイ劇場を建てた人が、何人もいるに違いない」と思った。すると、一週間前に劇場を見学した情景が脳裏をかすめ、胸に込み上げてくるものがあった。
通りすがりで赤の他人のわたしは、馴れ馴れしい言行を、はばからねばならないだろう。しかし心の中から、しぜんに言葉が溢れ出してきた。「おつかれさま!」と呟きつつ、合掌をした。
先ほどの小道に戻ると、小学生ほどの少年が近寄ってきた。胸に「DIESEL」とプリントされた、真新しい半袖の白い丸首シャツを着ている。
写真を撮って欲しいと、身振り手振りでいう。新調した白いシャツを着た、腕白そうな少年に向かって、シャッターを押した。
撮り終わってから、ふと足元を見ると、可憐な小さな花が咲いていた。それはちょうど、ユウスゲの花が薄紫色になって、花びらを空に向けていいるような姿だった。わたしは花に引き寄せられるようにして、カメラを向けた。



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