古代ペルシアの都・ペルセポリス



山裾に丘に広がる宮殿廃墟に向かって、ぞろぞろと歩いて行く。どこへ行っても目にする日本人は我々だけで、ほとんどが欧米人だ。
砂埃を立てながら、工事中の道をしばらく歩くと、大石を組み上げた壁面の前に着く。
その表面には、楔形文字が模様のように刻まれていた。
巨大石壁の左右には、階段がある。どちらも111段あり、段差が10センチと低い。それは往時、馬に乗っていても上り降りし易くするためだという。
この階段は、一段ずつ石を積み上げたものではない。一つの石から五段分の階段を切り出したて削ったものだそうだ。かなりの大石を積み上げた証でもある。
大階段を上りきると、ペルセポリスのシンボルでもある「クセルクセス門」の前に出る。クセルクセス一世が建てたこの門は、「万国の門」、「諸国の門」などと呼ばれていて、当時は控えの間の役割を果たしていた。朝貢の使節たちはここを通って宮殿に入り、「百柱の間」や「謁見の間」へと向かったそうだ。



この門を通り抜けた奥に、「空飛ぶ双頭の鷲像」があった。その、見覚えのある姿。見詰めるこの像は、我々の乗ってきたイラン航空のシンボルマークのモチーフになっていたのだ。足の欠けた部分はあるが、顔も体も、はっきりとした形で残っていた。
天空を突き刺すかのように立っている、十二本の石柱。ここはダイレオス一世が創建して、クセルクセス一世が完成させたという、アケメネス朝の豪華な宮殿「アパダーナ(謁見の間)」だ。
北と東には、大階段がある。東階段の壁面を見ると、貢物を持って訪れる各国の使者の姿が描かれている。レリーフの保存状態も良くて、それぞれの国の衣装や献上物が描かれていて、興味深い。牡牛と戦う獅子像は、有名である。
旧時は、高さ二〇メートルある三十六本の柱によって支えられていたという。その屋根には、レバノン杉が使われていたそうだ。
ペルセポリスのほぼ中央に位置しているのが、会議の間とも呼ばれている、「中央宮殿」である。東と南、北側の三方に入口があり、凝ったレリーフが特徴的だ。
北側の階段脇には、メディア人やペルシア人の高官と貴族が、会議に向かう様子が彫られている。
中央宮殿の東側が、「百柱の間」だ。ペルセポリスの宮殿中で最大の広間で、最も豪華だったと伝えられている。



当時は、高さ一四メートルの柱が十本十列、その名の通り百柱が整然と並び、70メートル四方の空間を支えていたのだ。現在ではその列柱も崩壊してしまい、礎石しか残っていない。
この大広間は、朝貢者との謁見の間として、また、軍隊や家臣との会議の場として使用されていた場所だ。ペルセポリスを象徴するモチーフともいえる、レリーフが多く残されている場所でもある。
「悪魔と王の闘争像」は、悪に対する王の力や、勝利の象徴のレリーフだ。「玉座の王像」も、王の権力を誇示したもので、玉座を担っている臣民たちは、アケメネス朝に従う28の属州を示している。そのほか、100人の人物を彫った「百人のレリーフ」や、「翼のある日輪」などがある。
クセルクセス一世の宮殿「ハディーシュ」から、ダイレオス一世以来の王朝の財宝を収めたという、「宝庫」に出る。
ここには、莫大な数の財宝が保管されていたという。しかしこの地が陥落すると、アレキサンダー大王によって運び出されてしまったそうだ。それは、一万頭のロバと五千頭のラクダを使った量だという。
近くにある小さな博物館は、かつての王妃の住居だという。ペルセポリスから出土した、陶磁器やコイン、装飾品、焼け残った布地などが陳列してあった。出土品の重要なもののほとんどは、テヘランの「考古博物館」に移されているそうだ。
子どもたちの遠足なのだろう、狭い館内は混み合っていた。



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