イランの歩んだ道



イランの歴史を振り返ってみると、紀元前6世紀のアケメネス朝期に、町造りが始まっている。8世紀のアッバース朝期には、中枢都市として栄え、11世紀のトルコ系セルジューク朝期も、重要拠点となっていた。
イスファハーンは、1228年にモンゴル軍に、1387年はティムール軍に侵略されて、支配されている。
イランの地に、イル・ハーン朝を建てたモンゴルの支配者たちは、イスラムを受容しながら、徐々にイスラム文化に自身を適応させていくことになる。
イラン北西部のタブリーズに、首都を定めたイル・ハーン朝。その領域は、現在のイランを中心に、アム川からイラク、アナトリア東部に及んだ。



その帝王であるフレグは、チンギス・ハーンの孫に当たる。「イル」とはティルク語で「国の民」との意で、「ハーン」を付けて、「イル・ハーン」の国号になる。
フレグの兄は、モンゴル帝国第四代ハーンのモンケである。そのモンケから、西アジア遠征を命じられた。フレグは、1253年モンゴルを発って、1256年にイランの行政権を獲得している。
さらに1258年に、イラクに入ってバグダードを攻略した。アッバース朝を滅ぼして、西アジアの東部にモンゴル政権を確立したのだ。



イル・ハーン朝が求心力を失っていく、14世紀の前半。モンゴル系の侵入の第二波である、ティムールが侵入してきた。
ティムールは、首都をサマルカンドに置いたが、この王朝の文化は、イラン・イスラーム的な要素が強かった。イラン国内でも、美しい建物が残されたのだった。
ティムール朝が弱体化すると、イランは戦国状態に入った。そんな戦に休止符を打ち、イランを統一したのがサファヴィー朝だった。



中興の祖となる第5代王アッバース一世が、イスファハーンを都に定めた。建築と学問の町として発展して、黄金期を迎えた。
「エスファハーン(イスファハーン)は世界の半分」と称賛された有名な言葉は、このころ生まれたものだった。
当時の都市計画が現在の街並みの基礎となって、近代化を遂げている。町には、そのころのペルシア建築が残り、イマーム広場は、1979年に世界文化遺産に登録された。



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