再統一を果したサファヴィー朝



アッパース一世は、サファヴィー朝の最盛期の王だった。日本ではちょうど、豊臣秀吉が日本を統一したころだった。
サファヴィー朝以前のペルシアでは、13世紀から14世紀にかけて、モンゴル系の「イル・ハーン朝」と「ティムール朝」の支配を受けていた。
ティムール朝が弱体化すると、西イランではカラ・コユンルとアク・コユンルという、トルコ系の遊牧民が建てた王朝が成立した。ともに短命ながら、軍事的にめまぐるしい活動を見せたのだ。



そんな、他民族支配の混乱期だった、戦国状態に終止符を打ち、イランを再び統一に導いたのが、サファヴィー朝である。
神秘主義教団と呼ばれていた、「スーフィー教団」だったサファヴィー教団は、しだいに政治化していった。16世紀初頭にエスマーイール一世によって、シーア派十二エマーム派を国教と定めて、サファヴィー朝を興したのだ。



16世紀後半辺りから、サファヴィー朝の絶頂期に入った。当時の王アッパース一世は、首都イスファハーンの開発に乗り出した。
このサファヴィー朝の統治下で、シーア派と密接に結びつき、現在に至るイランの国民性の基礎が固まったのだった。
サファヴィー朝は、1722年に侵入してきた、アフガン人によって滅ぼされた。するとイラン人は、再び戦国時代に突入していったのだ。



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