中央アジア・オアシスの攻防



中央アジアは、シルクロードの中枢にあたる。古来さまざまな文化が東西から到来し、融合して、再び伝播していった。それは、さまざまな征服者によって侵略、荒廃、復興、発展というサイクルを繰り返し、何度も歴史が塗り替えられたのである。
民族とその文化が、他民族によって滅亡すると、前の文化を受け継ぎながら、新しい文化を育てていく。その積み重ねた文化が、現在の中央アジアの姿を作り上げていった。それはまさに、シルクロードの「文化のゆりかご」のような地域である。
アレキサンダー大王やチンギス・ハーン、それにティムールなどが、この中央アジアを舞台にして、諸民族との争奪戦を繰り広げてきた。
遊牧民族とオアシス農耕民族の伝統を兼ね備えた、ウズベキスタンを始め中央アジアの民にとっては、そんな攻防の歴史は、心の襞に深く刻み込まれていることだろう。
紀元前334年に、ペルシア遠征を始めたマケドニアのアレキサンダー大王。紀元前329年には、ヒンドゥークシュ山脈を越えて、バクトリアに入っている。勢いは止まらず、ソグディアナに入り、その首都マラカンダ(サマルカンド)を占領した。
匈奴や、イラン系民族の月氏との遊牧国家の覇権争い仏教徒として知られた、クシャーナ朝のカニシカ王の出現。
五世紀末には、イラン系遊牧民のエフタルがクシャーナ朝を滅ぼして、中央アジアのほぼ全域を支配した。
チンギス・ハーンが現れた中央アジアは、サマルカンドやブハラ、メルブなどのオアシス都市が次々と征服された。チンギス以前の中央アジアには、首領も支配者もなく、各部族がばらばらに生活していた。お互いに同盟することもなく、常に対立し、抗争していたのだった。1221年には、ホラムズ・シャー朝が滅ぼされた。
チンギス・ハーンの死後、ユーラシアからロシアに及ぶ広大な領地は、息子たちに分封されている。
中央アジアは、チンギス・ハーンの第二子のチャガタイの支配下になった。
サマルカンド(ウズベキスタン)近くのケシュ(シャフリサーブス)で、1336年に生まれたティムール。サマルカンドを首都として、ティムール朝を興す。
9年間の外征を続け、1395年には、現在のイランやイラク、シリア、トルコ、さらにコーカサスの地域まで征服した。
中央アジア最古の都市・サマルカンドに、ティムールは次々と青いタイル張りの建物を造り、現在でもその壮麗な姿を留めている。


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