ボスポラス海峡クルージング


アジア大陸とヨーロッパ大陸とを隔てている、ボスポラス海峡。シルクロードの時代から海峡を往き来して、互いの文化が交流し、混じり合った地域でもある。
それは交通の要地であり、往時多くの民族の争いが耐えなかった、軍事上の要衝でもあった。
そんなアジアとヨーロッパとの境界の海峡には、当時の支配者が築いた、栄華の跡が各所に残っている。これから歴史を秘めた瀬戸をクルージングして、アジアとヨーロッパ側の沿岸の風景を眺めるのは楽しみだ。
船着場には、多くの大型観光船が繋留されているが、観光客はまばらだった。我々が乗り込むと、船はすぐに発船した。風が冷たく、空はどんよりとした雲が垂れ込めており、遠方の風景は靄っている。甲板は寒いので、船室に入る。磨かれた大窓のガラス越しに、岸沿いの風景がはっきりと眺められる。


黒海方面に進む、船の左側がヨーロッパ側だ。先ずは前方に、ドルマバフチェ宮殿が現れた。海峡に沿って細長い、壮麗な造りだ。全長が600メートルあり、1843年から十年の歳月をかけて、31代スルタン・アブドゥルメジット一世によって建造された。
1938年11月10日午前9時5分、トルコ建国の父アタテュルクが、この宮殿で息を引きとったという。彼を偲んで、内部の時計をその時間に合わせて、止めてあるそうだ。
当然、クルージングしながらここからでは見えないが、大ホールのシャンデリアが素晴らしいという。重量が4・5トンあり、イギリスのヴィクトリア女王から贈られたものだそうだ。
全長1074メートルの第一ボスポラス大橋を見上げるが、見る間に小さくなって行く。この橋はイギリスの企業が、1973年に完成させたものだ。


橋の袂に見える、小さなモスクはオルタキョイ・モスクだ。ここオルタキョイでは、何百年もの間、教会やモスク、ユダヤ教の寺院が隣り合って共存してきたという。多民族のイスタンブールの地らしい、光景である。
前方には、第2ボスポラス大橋がうっすらと眺められる。
その手前には、城壁が連なっていた。近づくほどに、巨大な城の姿を現してくる。1452年に造られた、ルメリ・ヒサル要塞である。メフメット二世がコンスタンチノーブル(イスタンブール)攻略に備えて、僅か4ヵ月で建造したそうだ。世界の軍事建造物の中でも美しい建物の一つと言われている。現在は整備されて、絶好の散歩道となっている。夏にはコンサート会場にもなり、毎夜盛り上がっているとか。
この辺は、ボスポラス海峡の中でも最も幅が狭い場所で、700メートルほどという。
対岸のアジア側には、1391年に建てられた、アナドル・ヒサルの要塞が見える。
海峡を挟んだこの2つの砦から、ここを通過するビザンチンの船を攻撃したのだ。瀬戸の幅も狭く、攻撃するには絶好の地であろう。アナドル・ヒサルは、現在は公園となっている。ちなみに「ルメリ」とはトルコ語で「ヨーロッパ」。「アナドル」とは、「アナトリの意だ。「ヒサル」は「要塞」である。
全長1090メートルの第二ボスポラス大橋が、頭上に迫ってきた。この橋は、1988年に日本の企業が完成させたものだ。
また、2004年に着工され、2009年に開通される、全長13・7キロの海底トンネルも、日本企業によって建設されている。トルコ政府は、1999年にトルコ西部大地震を経験して、日本の耐震技術に注目したのだ。いつ起きるか分からないトルコの地震に備え、イスタンブール市内の橋梁の耐震工事のために、円借款を要請したという。


イスタンブールの慢性的な交通渋滞と、排気ガスによる大気汚染。それらがともに、緩和されることを期待してのことである。ちなみに、第1ボスポラス橋以外の橋は、すべて円借款による建設だそうだ。
船は海峡で大きく面舵をとり、マルマラ海に向かって、出船した船着場へ向かった。旅のフィナーレのときが迫ってきた。安堵と惜別の念が強くなってくるのは、いつもの旅の終わりに涌き出る、複雑な感情である。
下船してから、近くの和食レストラン「トウキョウ・スシバー」で、遅い昼食を食べる予定だ。その後空港へ直行し、午後6時フライトの「TK―050」便にて、成田に直行することになる。
クルージング船が進むほどに、青く静かな海面が割れていく。波を切る舳先から後方に向かって、白い筋が広がって行った。
船の近くを、次々とカモメが過ぎって行く。それはさも、別れの挨拶をしているかのようでもある。そんな光景を眺めながら、わたしは心の中で、「さよなら!」と呟いていた。





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