ホータンの町も近し


荒れ果てた、ゴビ灘の風景か広がる砂漠に沿って、パスはスピードを上げて直線道路を突っ走る。黄白色の大地に、点、々と見られる僅かな緑色は、大地を這うようにして生きるラクダ草である。この植物は鋭い刺があるので、とても食べられそうもないが、ラクダの食料となるのだ。何でも食べなければ生きてはいけない、砂漠では大変なご馳走なのだろう。
このタクラマカン砂漠を挟んで、二つのシルクロードの幹線かある。砂漠の北側を、西域北道(天山南路)と呼び、今走っているここは、西域南道である。シルクロードの中でも、西域南道は最も古い道で、「漢南路」とも呼ばれていた。
しかし、乾燥化の進行によって砂漠化が激しくなり、七世紀以降は交通路として衰退してしまった部分もある。
古代の住居址の遺構は、主として南道に多く見られる。ヨートカンを始め、ラワク、ダンダーン・ウィリク、ニヤ、チェルチェン、チャルクリク、桂楼蘭……など。これらの都は、クシャーナ朝時代に移民の進出により、繁栄していったのだ。
今では砂に埋もれてしまったが、そのオアシス都市が栄えたのは、2、3世紀から8、9世紀にかけてである。
その時代に多くのストゥーパか建造された。そのストゥーパを巡って、右繞行道のための回廊が造られる。その壁面は、古くは絵画だったが、やがてレリーフで飾られるようになったのだ。この魏晋南北から、隋や唐の時代には、仏教文化が華やかに花開いたのだった。
変化に乏しい砂漠の風景だが、その荒々しい眺めも、しだいに変化してきたことに気付いた。大地の起伏が、少しずつ激しくなってきている。紅柳といわれるタマリスクと、砂漠の砂との競い合いでできた、小山の数が多くなってきたのだ。つまり、タマリスくが育つ地下水脈が、広がっているということである。それは、オアシスが近くなった証でもあろう。
しだいにラクダ草が増え、葉先に花を付けているものもあった。見上げる上空には、ツバメに似た鳥の群れが飛び回っている。「餌はあるのだろうか?」と案じるほどの大群である。
遠方の道路沿いに、家らしき建物が見えてきた。パスが近づくほどに、その姿がはっきりしてきた。久しぶりに目にする民家に、ほっと安堵した。ホータンの町に入ってきたのだろう。
アシを束ねた塀の中には、土で固めた家が、ゴビ灘の一画にひっそりと建っている。
さらに、一軒、二軒と増えていき、いつしか集落となっていった。そんな情景は、かつて読んだことのある、本の風景描写に似ていた。確か、ロシアの探検家・プルジェワルスキーが記した、『黄河源流からロプ湖へ』の集落の様にそっくりである。
ホータンの町に入ると、建物もしだいに大きくなってきて、ほどなくしてホテルに着いた。時計は、午後8時を指すところである。早朝出発したカシュガルのホテルから、11時間半かかったことになる。長い一日の砂漠の移動だったが、予定通りに、無事ホータンに辿り着いてほっとした。



ホーム

inserted by FC2 system