シルクロードとは……



ナヴォイの町を離れるほどに、辺りには田園風景が広がってきた。草原のように麦畑が、延々と続いている。埃っぽい町とは違い、初々しい青さだ。
しばらく走ると、民家が点々と現われてきて、いつしか集落となる。しかし小さい村は、すぐに農家が点在してしまい、田畑の割合が多くなっていく。車窓のそんな風景を眺めていると、シルクロードの成り立ちを、垣間見る思いになってきた。
小さな集落の繋がりがオアシスに結ばれて、そこで新しい文化が生まれ、発展し、次のオアシスに中継される。その道は延々と続き、文化を伝えながら、オアシスからオアシスを繋ぐ。その道が、シルクロードと呼ばれるようになっていったのに違いない。
むろん、「シルクロード」との名付け親は、ドイツの地理学者、リヒトホーフェンだ。1877年に著した彼の大著『シナ』第一巻の中の「二世紀までの中央アジアの絹街道」の中で、その名が出てくる。
つまり、古代中国の絹が、西アジアを経てヨーロッパにもたらされた、道の名である。それはまた、ヨーロッパのガラスが東進した「グラスロード」、あるいは、仏教が伝わった「ブッダロード」とも呼ばれている。しかし、シルクロードはあくまでも、交易路であり、文化交流や宗教の伝来は、交易に付随して起こった現象である。
一般にシルクロードは、西安(中国)からローマ(イタリア)までを指す。また、正倉院(日本)が終着点、ともいわれている。実際には、海のシルクロードを含めて、交易路は限りなくあるのだ。つまり、中央アジアを横断する、東西交通路に対して名付けられた名前なのだ。
東は中国領の西端から中央アジアを通り、カスピ海を渡って、アゼルバイジャンを過ぎ、トルコに入る。この間は、トルコ語系民族が帯のように連なって居住している。この地域が、本来シルクロードと呼ばれている地域でもある。



中央アジアは「トルコ人の土地」との意の「トルキスタン」とも呼ばれている。中国の新疆ウイグル自治区を、東トルキスタン。中央アジアを西トルキスタンと、定義されているのだ。
民族から見ると、中央アジアを代表しているのは、ウズベク人、カザフ人、キルギス人、トルクメン人、そして、タジク人の五民族である。この中で、タジク人を除く四民族が、トルコ語系の民族だ。
ウズベキスタンの主要民族は、トルコ語系モンゴロイド人種のウズベク人で、中央アジアでは最も多い民族である。
ウズベクとの民族名は、十三世紀のキプチャク・ハーン国の王、ウズベク・ハーンに由来するといわれている。十四世紀ごろ、南シベリア地方から南下を始め、その一部が、弱体化したティムール帝国を破った。ウズベク族は、十六世紀初めにシャイバニ朝を興して、オアシス都市に定着したのだ。その過程で、ペルシア語系アーリア人種のタジク人などと混血が進んだという。
ウズベク人は、我々の容貌(ようぼう)に似たモンゴロイド系の人たちも、多く見かけた。しかし、彫りの深いトルコ系の顔立ちの人が、普通に見る人たちだった。ぽっちゃりとしたロシア系の人も、まま出会った。
時には、茶色の頭髪の人も目にするが、ウズベク人の髪の色は、ほとんどが黒である。
服装は男女ともに、若者たちは我々と同じような、西洋式のシャツやズボンを着ている。しかし年配の人たちは、民族衣装を身に着けている人が多い。
女性は、モンペのようなズボンの上から、アトラス模様の色鮮やかなワンピースを着ている。
男性は、地味な民族衣装だ。老人は、口髭と顎鬚を蓄えて、ドッピと呼ばれる黒い角帽を被っていることが多い。



中央アジアの主要五民族のほかには、ウズベキスタンに自治共和国をもつ、トルコ系民族のカラカルパク人。キルギス東部などに多く住む、ドゥンガン人がいる。ドゥンガン人は、中国本土ではよく聞く回族と呼ばれる、ムスリム中国人だ。彼らは、十九世紀ごろから、中国本土で迫害を逃れて、中央アジアに住み着いたといわれている。
そのほか、ロシア人やウクライナ人などのスラヴ系民族や、タタール人、ウイグル人など合わせて、百以上の民族が暮らしているそうだ。
中央アジアには、そのように多くの民族が集まっているのだ。それぞれに、強い民族意識を主張して、さぞや民族間の紛争が絶えないだろうと思う。さにあらず、そのような心配はないようだ。
民族意識を持ったのは、比較的最近のことだそうだ。ソビエト化した中央アジアが、スターリンによる国境線引きがなされてからのことだという。
どの民族もそれまでは、国境線を持った民族国家を、形成したことはなかったのだ。たとえば、サマルカンドやブハラのオアシス都市の住民は、民族意識がないままに、ウズベキ語とタジク語をしぜんに話していたという。ウズベク人もタジク人も、お互いに「ムスリム」とか「サルト(商人)」と呼び合っていたそうだ。
「分割と統治」をもくろんだスターリンによって、中央アジアの民族は「創り出された」といっても過言ではないだろう。
考えてみると、民族国家を持ったことの意義は評価できる。でも、国名とは違う、百以上の民族がいることを、忘れてはいけないだろう。これは、ソ連の負の遺産である。将来、中央アジアの民族対立を生み、広げる、大きな要因とならねばいいがと、案じられる。
しかし一方、現代の文明、文化を素早く吸収するには、同一民族国家の方が動き易さはあるが……如何に?それには、中央アジア連合を統率できる、偉大なる名君の出現を期待したいところだ。
広大な中央アジアという一つの国家を、歴史的に見ても、チンギス・ハーンやティムールという、傑出したハーンが統治していた。民族が違っていても、一つの国家になっていたのだ。
「だからシルクロードは、文明、文化の歩む道として、発展していったに違いない」と、思い巡らせていた。



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