ウルグベク天文台跡



 グリ・アミール廟からタシケント通りに出て、バスで3kほど北東へ行く。
 見晴らしの良い、小高い丘の上に、「ウルグベク天文台」の跡があった。見下ろす辺りには、緑に囲まれた家々が、丘を取り囲むように広がっている。遠方には小高い山々や、その背後には雪を頂いた高山が、白さを競い合っている。
 現在この天文台は、丸い建物の基礎と、六分儀の地下部分しか残っていない。当時は、高さ30m以上の建造物に、取り囲まれていたという。
 眺める天文台の入口は、モスクのアーチを小さくしたような、立派なものだ。むろんこれは、後から造られたものだろう。六分儀は地下にあるために、全体の形をはっきりと把握できない。それはまるで、登り窯を平地に築いたような姿である。
 天文台とは思えない、色タイルが張られた見事な門から、中に入る。
 薄暗い地下の前方に小窓があり、差し込む陽射しが、室内を照らしている。削り取ったままの荒々しい岩肌の壁が、細く長く、明り取りの小窓に向かって続いている。
 中央には、二本の石製のレールがあり、壁に沿って延びている。これは、観測角度を変えるときに、使われたものだろう。がっしりと石組みされたレールの間や、その両脇には、幅の狭い石段が取り付いている。
 見るべきものは、この遺構だけである。しかし、観測設備は驚くほど頑丈な構築で、十五世紀に造られたとは思えないほどだ。旧時の発達した文化のほどが、窺い知れる。
 薄暗い地下室から外に出ると、眩い光に目を細めてしまう。再び眺める、登り窯のような天文台。かつてあったという、30m以上の建物を想像してみる。すると、現在の天文台にも負けない過去の施設が、彷彿と甦ってくるようだ。土に埋もれていたこの天文台を1908年に発見したのは、ロシアのアマチュア考古学者だという。
 敷地内には、六角形の搭のような形をした、こぢんまりとした博物館がある。当時のウルグベクの資料などが、展示されている。



 何枚かある、彼の肖像画。顎鬚を蓄えて、白いターバンを被った姿。どの顔も知的で、やや神経質そうに描かれている。唐草模様のイスラム服を着た、ウルグベク。その思索にふける表情は、生誕六百周年を記念してウズベキスタンで発行された、切手の絵柄にそっくりだ。
 ウルグベクは、ティムールの孫に当り、帝国の第四代皇帝だった。しかし不幸にして、55歳で非業の最期を遂げた、彼の在位は僅かに2年余りだった。イスラーム指導者たちにだまされて、刺客を向けさせたのが、何と、ウルグベクの息子だったのだ。
 ウルグベクは為政者というよりも、聡明な学者肌の人物だったそうだ。天文学者であるとともに、詩、音楽、神学、歴史などに造詣が深かったという。彼は、多くのメドレセ(神学校)やモスクをサマルカンドに造り、自ら、教鞭を執ったそうだ。美都・サマルカンドは、ティムールの勇敢な軍事行動と、ウルグベクの非凡な才能なくしては、ありえなかったのだ。
 ウルグベクは、天文台の建設と、天文表の作成で有名である。1018の星の軌跡を記録した、天文表。これが、コンスタンチノーブルに逃げた弟子によって出版され、天文学者・ウルグベクの名を世界に知らしめたのだ。
 イスラム文化の中心地として栄えたころの中央アジアは、高名な科学者を数多く輩出している。ウルグベクと同じように、彼らの多くは単なる科学者ではなく、文学や美術にも長けた、ルネッサンス的文化人でもあった点も、注目に値する。
 ちなみに、中央アジアで最も有名な学者といえば、先ず、イブン・シーナ(アビセンナ
)が挙げられる。医学、哲学、自然哲学など、彼が残した著作は300点に及び、そのひとつの「医学規範」は、ヨーロッパ医学発展の基礎ともなっている。
 むろんウルグベクも、この時代の十大科学者のひとりに数えられる、偉大な学者だったのだ。



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