モンゴル軍来襲の背景



「肥沃の都」との意のオアシス都市・サマルカンドは、富裕な都だった。八世紀半ばから、紙の製造でも有名な地である。
そんなサマルカンドの都は、モンゴル軍に包囲されてから、5日目に陥落した。しかし、知事のティムール・メリクの頑強な抵抗にあったために、さらに包囲戦を増強したのだ。2万のモンゴル軍と、5万の捕虜たちだ。
この捕虜を使う戦法は、モンゴル軍の常套的な方法だった。地方農民から徴発した捕虜や、敵兵の捕虜を矢面に立たせて、自軍の盾としたのだ。
馬のもつ機動性にものをいわせ、疾風のように襲い、「略奪」という、彼らにとっての一種の生産目的を果すのだ。すると、再び疾風のように立ち去るといった、原始的な戦闘だった。
モンゴル軍を率いるチンギス・ハーンは、一言でいえば、「生涯ステップ(乾燥草原地帯)の人間として終始したハーン」である。終生、外国語を学ばず、シャーマニズムに徹し、常に天を敬い、恐れていたのだ。つまり、「ステップが生んだ、天才野人」といえよう。
彼は、艶やかなシナ文明にも誘惑されず、豊かなウイグル文明にも屈しなかった。さらに、西方のイラン文明にも心酔しなかったのだ。
5年にわたるモンゴル軍の席巻で、中央アジアは徹底的に破壊された。特に、ここサマルカンドとブハラの被害は甚大だったという。さらにモンゴル軍は、大軍を率いて周辺各地へと、勢力を拡大していったのだ。
しかし思う。領土に執着せず、略奪が目的だったチンギス・ハーン。本来彼は、ステップ以外の領土拡張は、考えていなかったようだ。「なぜこれほどまでに、破竹の勢いで征伐を続けたのか?」と、首を傾げてしまうほどの凄まじさだった。



チンギス・ハーンの中央アジア侵出への切っ掛けは、「リベンジ」だ。つまり「仇討」から始まったといえよう。それは、「オトラル事件」に端を発しているのだ。
国境を接する、西方のホレズム帝国と外交関係を進めるために、1218年6月、チンギス・ハーンは使節を派遣した。500頭のラクダに、東方の珍貨などを積んで、ホレズムへとキャラバンを組んだ。
途中のオトラルを通過するときだ。ホレズム王のスルタン・ムハンマドに贈るはずの金銀財宝の総てが、オトラルの代官によって、略奪されてしまったのだ。使節を含む450人のうち、1人を残して、ことごとく殺戮された。命からがら逃げ帰ったラクダ使いによって、オトラルでの一件が、チンギス・ハーンに伝えられたのだった。
それに激怒したチンギス・ハーンは、翌1219年に、ホレズム討伐に向かったのだ。以後、留まることのない、西方遠征が続けられたのだった。
もしも、この「オトラル事件」がなかったならば、チンギス・ハーンの中央アジア遠征もなく、歴史は変わっていたかもしれない。むろん、このサマルカンドも、惨い歴史を留めることなく、穏やかで平和な都であり続けたかも知れない。



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