修理中だったトロイの木馬



写真で何度も見たことのある、トロイの木馬は修理中だった。この旅に来る前に聞いていたことだが、目の当
たりにすると残念だ。木製の馬の周囲には、木の足場が組まれており、全体が見難くなっている。雨とあって、
修復している人たちの姿もない。
むろんこの木馬は、観光用に近年建設されたものだ。ふだんは、木馬の内部にも入れるのだが、修復中は内部の入場は禁止である。
遺跡に入ると、先ずは1・5メートルほどの壷がある。50メートルほど先には、紀元前3000年から幾重にも積み重なった、遺跡が広がっている。



どれも、崩れかかった城壁の石組みや、礎石である。その周りには、倒れた石柱の一部が残っている。しかし、往時の姿を想像することができないほど、崩壊していた。
この遺跡は、「トロイの木馬」の伝説を信じていたドイツ人のシュリーマンが、1871年から1873年に発掘を行い、現在も発掘調査は続けられている。遺跡の復元は、調査が完全に終了してからだというから、まだまだ先のことだろう。
風を伴ってきた冷たい雨は、容赦なく降りかかってくる。すでに足元は、びしょ濡れである。傘を差しながらカメラのシャッターを切っているが、しだいに腕が痛くなってきた。



このトロイの遺跡は古く、この地に集落ができ始めたのは、紀元前3000年前に遡る。エーゲ海岸の交易の中心として繁栄したのが、紀元前2500年から200年ごろだ。その後は、栄枯盛衰を繰り返してきたという。それにより、トロイの地には、9層にわたる都市遺跡が出来上がったのだ。
第6市の紀元前1800年から1300年ごろに、一時期は繁栄を取り戻した。しかし、紀元前1200年ごろに起きたトロイ戦争によって、町は滅亡への道を辿っていった。その攻防は、10年にも及んだという。
その後イオニア人が殖民し、マケドニア時代にはアレキサンダー大王が、ローマ時代にはコンスタンティヌス帝が、この地を訪れている。
第6市の遺跡の周囲を囲む城壁は、紀元前1800年から1300年ごろのものだ。塔や城門などの跡が見られる。
長方形の礎が残っているのが、アテネ神殿跡で、第8市に当たる紀元前700年ごろのものだ。
アテネ神殿の後にある城壁や城門跡は、紀元前3000年から2500年ごろの第1市に当る、最も古いものだ。



シュリーマンが、トロイ最後の王の「プリアモスの財宝」を発掘したといわれているのは、第2市で、そこには、紀元前2500年から2200年ごろの城壁や城門跡が残っている。
第6市の城壁外へ抜けると、第9市のローマ時代の聖域や劇場跡などが見られる。
一巡して、入口近くの事務所に出る。ロビーに入るが誰も見られず、照明も切れていて薄暗い。製作中の遺跡の模型が、隅のテーブル上にあった。今日は火曜日だ。休日でもないのに職員も見渡らず、訪れる人もいなかった。




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